<第0061号 2004年1月29日(木) 本日のこびん> 鳩 鳩の首はどこへ行くんだ 少し太りぎみの体と 細い2本の足を連れて * 挿一輪 * 公園で鳩がエサを探して歩いています。首を前後に振りながら、いそがしげに歩くしぐさは、ユーモラスでありながら、お疲れ様といいたくなります。 体が動くというより、あの小さな頭が、体と足に、ついておいでと、引率しているようです。空を飛んでいるときは、羽を広げているせいもあり大きく見えますが、地上を歩いているときはどうもバランスが悪く危うげにみえます。 子どものころ、公園でエサをやったことはありませんか?観光地に行くと「鳩のエサ」を売っていたり、手持ちのポップコーンやパンのくずなどをまいている人を見かけました。 子どものころは意外と鳩に無防備なものです。エサを足元に置くと、いっせいに鳩がやってきます。集団がかたまって飛んできます。肩や頭にとまられて、怖くなって泣き出す子どももいました。 エサがなくなっても、立っているだけで、首を振りながら近づいてくる姿は、数が多いと子どもごごろにも迫力で、後ずさりしたこともたびたびでした。 小学校時代、伝書鳩を飼っている友達がいました。遊びに行くと鳩を見せてもらいましたが、一羽一羽の鳩はじっと見ているととても可愛かった思い出があります。伝書鳩と公園の鳩では違うのでしょうが、鳩に親しみはもてるようになりました。 どうもなにかが苦手、というのはあるでしょうが、近づくのも嫌だといっていると、いつまでも避けてしまうことになります。きっかけが必要でしょうが、じっと観察をしていると思わぬ発見があるかもしれません。 鳩も糞公害で話題になったこともありましたが、歩く姿を見ていると、不思議に親しみを感じることがあるかもしれません。 見るのも嫌いなものはあるかもしれませんが、嫌いなものというのは、そのなかにどこかで惹かれるものがあるのではないでしょうか? 鳩の首の動き、不気味だったものが、好きになってみたら、ユーモラスに見えてきたのもそのせいかもしれませんね。 少しだけ目をとめて、観察して見ませんか?動物でも人間でも。 <第0060号 2004年1月25日(日) 本日のこびん> ヤモリ 小さなヤモリがじっとしている 少し曲がった カタカナのキの字 部屋の壁に張り付いて * 挿一輪 * 最近あまり見かけません、ヤモリ。湿った水まわりの壁とかに、よく張り付いていたのですが。 トカゲやカナヘビに良く似ていますが、ヤモリの足には吸盤があります。何となく湿ったイメージがありますが、爬虫類です。ちなみにイモリは両生類だということですが。 ヤモリが壁に張り付いていると、カタカナのキの字に見えます。東南アジアのコテージに泊まったある人が、ふと天井を見上げると一面キの字だったとか。これを聞いて、露骨に嫌な顔をする人と、うれしそうに行ってみたいなという人と、人それぞれですね。 家では、以前カナヘビを飼っていました。名前は「ヘビ」でも、見た目はトカゲです。よく見かけるのでトカゲと間違える人が多いのですが、外見は良く似ています(ちなみに、色が違います)。 そういうわけで、まあ、1・2匹は可愛いですけれど(それもだめですか?さわれませんか?)、あまり多いと、ちょっと腰がひけるような気がします。別にかむわけでもないし(でも、かみます。ヤモリにかまれたことはないけれど、カナヘビなら、カジ、と。わりと力あります。大きいのだと少し痛いくらい)、よく見ると可愛い顔をしています。 ヤモリは乾いたところには住まないそうです。体も乾くし、えさの虫が取れないからかもしれません。コンクリートの密閉性の高い住宅には、ヤモリの住む場所はありません。いいのか、悪いのか、それぞれの考え方の違いでしょうが、なにか温かみや、懐かしさがなくなってしまったような気がします。 虫にしろ、小動物にしろ、子どもの頃にいろいろと遊んでもらった(?)おぼえがあると思います。ふだんの生活のなかで、あたりまえのように出会っていた小さな生命たちを、不衛生だの、汚いだの、といって、排除や除菌の対象にするのは悲しくありませんか。 清潔で、乾燥していて、余計なものは置いてない。一見いごこちよさそうな部屋で、なにか物足りなさを感じたとき、こころのなかまでもが、乾いてしまっているのではないのでしょうか。 こころのうちがわに、ぬくもりや湿り気を帯びれば、1匹のヤモリがそっとやってくるのかもしれません。 もっとも見るのも嫌だという人は、う〜ん、どうしましょうか?でも、乾ききっていると、こころにあかぎれができるかも・・・。 ヤモリは家守りに通じ、家を守るものといわれてきました。こころのなかにも心守りのように、ヤモリがいてくれたらいいと思いませんか? あなたにとっての、こころの守りは何ですか?(それでも、どうしても、爬虫類はイヤ?) <第0059号 2004年1月22日(木) 本日のこびん> 大寒 澄みきった瞳 この青空の向こうには 広い宇宙そのものがある * 挿一輪 * 風が強く、冷たさに身を切られるようです。空に雲ひとつなく、頭上にさえぎるものはなにもありません。大気圏を突き抜けて、そのまま宇宙まで見えるような気までしてきます。 なにも考えたくなくなります。じっと見てるだけで、そのまま吸い込まれてしまいそうです。クリーンフィルターのように、体からこころから、すべてを掃除して、再生されるようです。 時々、自分が何のために生きているのか考えます。 ずっと考え続けているような気がします。間欠的に、しまっておいたものが、ふと見つかるように、突然に出てくる問いです。 答えなどすぐには出ません。 答えの出せない問い、答えを出さない問い、答えを出したくない問い。 苦しんでいるのか、楽しんでいるのか。 あ、また、と思いながら、どこかで、再会に苦笑いをしていたりして。 いつもでたっても進歩のない自分にあきれたりしています。 もしかしたらそうかな、と、ふと答えがみつかりそうになるときがあります。例えば、だれかと話をしていたとき、本を読んでいるとき、ああ、そうなのかな、と気が付くことがあります。 でも、しばらくすると、問いのままの自分に戻ることが、ほとんどです。 なにか生まれる前から、もってきた問いでもあるような気がします。それはそのまま生きているあいだ持ち続けて、ついには持って帰るような気もします。 どこへ?その前に、どこから?ですよね。この青空を突き抜けた向こうにあるのかもしれません。 あなたには、ずっと持ち続けている問いがありますか? <第0058号 2004年1月18日(日) 本日のこびん> しゃがんだら しゃがんだら 雨の音が大きく聞こえた 耳と地面のあいだで 驚くほど大きく聞こえた こどもはいつもこうして 雨の中を歩いているのだ 道端の雑草はいつもこうして 雨にうたれているのだ * 挿一輪 * 歩いているといろいろな音に包まれます。 外へ出ると道路を歩くことが多いので、車の騒音がいちばん大きく感じます。繁華街に出れば、さまざまなアナウンスや話し声、音楽に雑踏の足音、耳をおおってもこじ開けるように入ってきます。 風の音だって、空調の音ですし、水の音だって、人工物の管からの音です。極端な場合、1日中自然に触れず、人工物のなかだけですごすことができます。 でも、雨に濡れなくても、駅の構内から目的地に行くことも可能です。 子どもの頃、長靴をはいて、ばしゃばしゃと、水たまりのなかに入るのが、好きではありませんでしたか?傘だって真上になんてさしていません。道端に何か見つけようものなら、傘を背中で支えるか、さかさまに放り出して、濡れるのにおかまいなしで、遊んでいたものです。 先日ふと、雨のなかでしゃがんでみました。 さすがに濡れるのがいやなので、傘は背中に。そこで雨の音がまわりから飛び込んできました。傘に当たる音、地面に当たる音、アスファルト、小石、雑草の葉、正確にいうと、対象物に出会った雨の音なのですが、こんなに、雨の音が、力強く、にぎやかだとは気が付きませんでした。 いえ、本当は知っているはずです。忘れているだけです。小さかった子どもの頃、雨の日のたびに聞いていたはずなのですから。 今は電車のなかでも、通りでも、平気でじかに座っている学生たちを多く見ます。まねをしたいとは思いませんが、地面に近いところで、雨の音を聞いてみると、懐かしい気分を味わえるかもしれません。 ほんの1m高さが違っただけで、音の聞こえ方も違うものですね。 人間の生活している範囲は、高さにしろ、広さにしろ、温度にしろ、自然界からみれば、驚くほど狭いものです。その狭い範囲内でも、いっぱいに使ってゆけば、それなりに新しい発見があるものです。 みんなそんなに変わりません。ほんの少しのところで違うだけです。 だから、いつでも、すぐにでも、変われますね? ちょっとしたことで、変化を見つけられますね? 毎日が同じようだというあなた。 あなたの背の高さの範囲でかまいません。 あなたの声の届く範囲でかまいません。 すこし、体をひねって、動かして、聞こえてきた音に、聞き耳をたててみませんか? <第0057号 2004年1月15日(木) 本日のこびん> 伝言 雨の中にまじる 雪のように白いもの 空間いっぱいに満ちた ことばのかわりの 数々の記号 * 挿一輪 * ことばは記号のひとつです。意思を伝えることのできる記号です。 人間が使う様々なことばのように、動物の鳴き声も意思の伝達です。ただ、ことばのように形には残せません。 木や草や花、植物たちも意思の伝達をするそうです。でも、人間にはその形が見えません。水の流れも、風の流れもそうです。 受け取る方法はあります。人間であるあなたは、体に感じることで記号を変換することができます。手に触れることや、耳で聞くこと、目でじっと見つめること、風の真ん中にたったり、水の中に手をつけたり。 それは、ただの感触で終わるかもしれません。冷たい、強い、優しい、痛い、そんな感情で終わるかもしれません。 でも注意深く観察していると、伝えたい何かがあると感じることができます。 正確にいうと、あなたの中で、何かを受け取りたいと感じているものが動き出す、ということかもしれません。 どちらにしろ、伝言が用意され、あなたはその伝言を受け取ることも、気が付かずに通り過ぎることもできます。 出会うということは、それぞれがお互いの伝言を伝えようとすることです。伝言を交換することで、お互いの気持ちが通じます。 大切なことは、伝えようとすることです。そして、しっかりと受け取ることです。 いつもその気持ちでいるようにすると、あなたのまわりには、気が遠くなるほど、多くの伝言に満ち溢れていることに気が付きます。 何かが分からなくなった時、何かが見つからなくなった時、そんな伝言に耳を傾けるようにしてみてください。あなたが探していることに、ぴったりの解決方法がみつかるかもしれません。 <第0056号 2004年1月11日(日) 本日のこびん> 理由 目で見たこと 耳で聞いたこと たとえ おとぎばなしのような伝説でも その奥には 深い理由が隠されている * 挿一輪 * 朝、新聞を取りに行って目を通す。テレビをつけて見る。インターネットで検索する。誰かの会話を何気なく聞く。 普通に生活していても、あらゆる情報が入ってきます。思わずうなずくもの、はっと気が付くもの、そんなことあるはずがないと、笑うもの。目で見て、耳で聞いて、そのまま忙しさに流されて、たいていのものはその場限りで消えてゆきます。 考える時間がない。でも、意外に答えを探したり、理由を考えたりする作業を、怠っているような気がします。 情報を情報として、純粋に扱うより、その続きに、無意識に答えを探していることありませんか?問題があって、最後のページにはその答えが載っている、まるで問題集や参考書のように、新聞やテレビを利用していませんか。考えるのは、せいぜいクイズくらい、それもしばらくしたら時間の長短は別にして、正しい答えが分かります。 何か出来事や事件があると、考える暇を与えないほどすぐに、ていねいな解説がおこなわれます。または、選択と称して、択一問題の解答のように、用意されたいくつもの答えの中から選択するように誘導されます。慣らされると、自分で考えようとせずに、どれから選ぶのか、まず、用意された答えを探してしまいます。 そこには自分で考え出し、何かを見つけ出すという思考回路がありません。選択することは面倒でなく、答えもすぐに出ます。最初は、どこか違うかなと思っても、このくらいかなといちばん近い答えを選んでしまいます。 アンケートに答えるとき、その他を選び、その内容を書く時って、妙に面倒ではありませんか? だから、選択肢のない答えを、自分の考えで語るのが、だんだんできなくなってゆきます。 まず、自分で何かを見たり聞いたりしたら、その理由を考えることが必要です。もし、その場で答えが分からなくても、選択肢のように用意された答えを選ばないこと。 そんな、まるで見当が付かない、というのなら、用意されている答えと、自分の考えとのずれに注目してください。2番の答えに近いのだけれども、どこか違う、とか。 そのどこかを、考えてみてください。 習慣にすると、独自の意見が形にしてもてるようになります。すると、なぜ、答えの用意をあらかじめしておくのか、その理由までも分かってきます(ホラー映画よりも怖いものがあります)。 あなたは今おこっている出来事の理由を、あなた自身で考えていますか? <第0055号 2004年1月8日(木) 本日のこびん> 雪 雪が 空いっぱいに満ちている でも 雪は 人間をいっぱいにすることはできない * 挿一輪 * 雪が空いっぱいに降りてきます。みわたすかぎり白。 もうまわりには、雪以外なにもないのではと思うくらいです。木も建物も道路も車も、歩く人たちも、真っ白に雪に包まれてゆきます。 でも歩く人たちのこころのなかにまで、雪はつもることはできません。寒さに震えながらも、こころのなかみはいつもと変わりません。つい先ほどまで話した友達のことや、今日やり残した仕事のこと、恥ずかしかったできごと、目に留まったほほえましいエピソード、雪のなかだからこそ、なおさら鮮明に現れる映像もあります。 目の前の世界が、まるで仮の世界のひとつのように、だれもがそれぞれ、自分だけの世界をもっています。まるで小宇宙がいのちの数だけあるように、それぞれのこころのなかは、広く果てしなく広がっています。 ひとつの世界を目の当たりにしながら、人はまるで別世界の入り口をいくつも持っているように、自由に出入りします。とても重要な場面で、実はとんでもない他のことを考えている、なんてことありませんか? 集中することができるということは、逆に言うと、他のことにもすぐ熱中することができるということなのです。こんなに広いこころの宇宙、たったひとつのことでいっぱいにすることなど、なかなかできません。 そう、ひとつのことのために、他を犠牲にする必要はありません。意識しなくても、同時進行で進めることができるのです。 そんなことはないと、自分で否定してしまうとせっかくの能力が発揮できません。時間がない、忙しいのなら、こころのどこかにそっと飾っておくくらいの気持ちにしておいてください。 ただ、忘れないように、引き出すときのインデックスを、どこかにメモで残すだけの工夫はしておいてくださいね。 真っ白な銀世界の下でもたくさんの色彩が眠っているように、あなたのなかにはすぐれた可能性が眠っています。 あなたはそんなマルチの考え、いったいどのくらいもっていますか? <第0054号 2004年1月4日(日) 本日のこびん> 夏みかんの実の下に 夏みかんの実の下に 地球がひとつ落ちていた * 挿一輪 * 歩いていると、道路に夏みかんの実がひとつ落ちていました。 すぐそばの木から落ちたのでしょう。ニュートンのりんごの法則と同じように、地球の重力にひかれて落ちています。 でも逆立ちしてみてみると、そう、小さな夏みかんの実が、地球を「よいしょ」と背負っているように見えます。もしかしたら、この小さな夏みかん一つで、地球は支えられているのかもしれません。 普通に歩いてものを見ていると、あたりまえの風景にしか見えません。見ていてもそうなのですから、なにか考え事などしていたらなにも記憶には残りません。 天邪鬼(あまのじゃく)のすすめがあります。 人が右を見たら、自分は左を見ます。立って見ていたら、しゃがんだり、背伸びしたりして見ます。逆立ちしてもいいでしょう。 でもそんなことをしなくても、なにかをじっと見つめるだけでずいぶん違います。それほど、人によって見るものは違いますし、興味のあるものも違います。 道に、お札でも落ちていれば、気が付く人は多いでしょうが、それでも通りかかった全員が気が付くとは限りません。 歩いていて、なにか気にかかったら、それを主人公にして(中心にして)視点を変えることがおすすめです。 別に夏みかんを手でとりのぞいても、なにもおこりません。 でも、もしその瞬間、微妙なバランスが崩れて地球がごろりと動いたら。 いのちは、それぞれが小さな宇宙を持っているといいます。人間も同じです。あなたもそうです。 なにかをひとつ動かしたら、あなたのなかのバランスは大きく崩れます。それはふだんのことで体験済みです。ささいなことで、気に病んだり、体調を崩したり。 だったら、それを前向きに、自分の生きるためのヒントに使いましょう。 さあ、まずは、天邪鬼のすすめからです。 あなたにとって、見つかる「夏みかん」はなんですか? <第0053号 2004年1月1日(木) 本日のこびん> いのちの音 時計の音がしなくても 犬の鳴き声がしなくても たくさんのいのちが息をひそめている いのちの音は途切れることがない 狭い部屋のすみの水槽で 金魚がぱちゃりと何かにおどろく 気がつくと たくさんの音が帰っている * 挿一輪 * 静かです。除夜の鐘が聞こえます。新しい年との出会いです。 夜、何も音のしない時があります。実際はしているのに、自分の耳がうけつけていないのでしょうか。何かをじっと考えているのか、それともただぼーっといているだけなのか。まるで自分だけがいるような静けさ。 そのとき、金魚が水槽ではねる音がします。他に生きているものがある。そう思った瞬間に、まわりの音がいっせいに入ってきます。 そう、いのちは途切れません、一時たりとも。 あなただってそうですね。呼吸や、心臓の音、気になると聞こえ始めます。 あなたの気持ちしだいで、一人っきりにもなれるし、たくさんの音に囲まれることもできます。 でも、これだけは事実です。係わり合いがあろうとなかろうと、あなたと一緒にたくさんのいのちが一緒に生きていること。 あなたはそのいのちに、手を伸ばせば触れることもできます。伸ばさずにじっとしていることもできます。あなたしだいです。 何かがあったとき、あなたは周りのせいにしていませんか。選択はあなたがしています。 落ち込んだり行き詰ったり、ささいなことであなたはあなた自身を変えてしまいます。 でも逆に小さなきっかけで、あなたは前を向いて歩いてゆくことができます。 変えることができるのです。 思いつめたり分からなくなったら、周りの音に耳を傾けてみてください。とくにいのちの音に。動物でも、植物でも、風でも。 あなたにとって、いま、聞こえてくるいのちの音はなんですか? 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