2004年2月のこびん

戻る


<第0070号 2004年2月29日(日) 本日のこびん>

      トランポリン

地球がもしも
みんなトランポリンだったら
ぼくの体が跳び上がるように
ぼくのこころも跳び上がる


   * 挿一輪 *
 トランポリンは夢をかなえてくれます。高くもっと高くジャンプしたいという夢を。
 でも不安げにトランポリンに上がり、ぎこちないと体はうまく上がりません。バランスを崩してはいつくばって格好の悪いことといったら。
 高く上がるぞ、高く飛ぶぞ、そう思って体をトランポリンに思いっきりぶつけると、高く跳び上がれます。
 こころのトランポリンがあったらいいですね。高くもっと高くジャンプしたいという夢を持って。
 夢がかなうと信じて、こころのトランポリンを思いっきり跳ぶんです。
 一、二の、三で。
 信じることと、こころを夢におもいっきりぶつけること、思いがけないくらい高く、空高く舞い上がれるかもしれません。
 地球がもしもトランポリンだったら。人間だけではなくて、木や草や昆虫や動物まで、ありとあらゆる生命がトランポリンで跳び、笑いながら触れ合ったなら、とても楽しいでしょうね。
 こころのトランポリンではそれが可能です。あなたがこころのなかで思うだけでいいのです。
 さあ一緒に跳んでみましょう。
 あなたの夢と、あなたの愛犬と、あなたの友達と、あなたの大好きなあの人と、好きなところへどこまでも、高く高くどこまでも。
 不可能はありません。だってあなたの信じる力がそのままトランポリンの跳躍力につながるのですから。
 さあ、跳びますよ、一、二の、三。
 あなたはもうこころのなかに、あなたのトランポリンを用意できましたか?


<第0069号 2004年2月26日(木) 本日のこびん>

      うたを忘れるな

うたを忘れるな
自分のうたを忘れるな
うたう自分を忘れるな


   * 挿一輪 *
 生きるということは、自分のうたをうたい続けることだと思います。
 うたは歌でもいいし、詩でもいいし、ウタでもいい、絵でも、パフォーマンスでも、小さなつぶやきでもいい。自分のからだのなかから、自然に湧き上がってくる思いを素直に表現することが、生きることです。
 他人と見比べてばかりいると、いつかは自分を見失います。他人のほうがよく見えたり、逆に自分のほうが優れているかのように見えたりします。自分自身をなくしては何の意味もありません。
 道を歩いていると廃屋に近い人の住んでいない家をみつけました。後を継ぐ人がいないのか、転居して売りに出したのが買い手がなかったのか、暗くなったら何かでてきそうな雰囲気があります。庭も荒れ果てて雑草だらけ、でもそんな片隅にみごとに開いた梅の古木を見つけました。足早に通り過ぎてしまいそうな鼻先に梅の香りが届いて気がついたのです。手入れをする人もいないのに、春の訪れを感じて梅は開きました。決して忘れることなく花をつけました。
 物事がうまくいかない理由を環境のせいにする人がいます。不幸せな、不遇な境遇だからと。幸せ、不幸せは、確かにあると思います。でもそれは境遇や個々の感じ方であり、生まれ備わった資質ではありません。
 それを証拠に幸せも不幸せもエネルギーに変換することができます。変換して自分が生きてゆくために、自分の生き方に使ってゆけます。それがいのちに備わっている本来の資質です。そのときの基準、それが生まれ持っている自分のうたです。
 自分のうたを忘れないでください。わからなくなったらうたを思い出してください。うたっていた自分を思い出してください。そんな、うたなんてないという人、いいえ、必ずあります。ただ忘れているだけです。大好きなことをやっている自分を思い出してみてください。
 本物のうたは、無駄な力がはいりません。自然に、それでいていきいきしています。たくさんのうたのなかで、自分のうたは一つだけです。
 知らない、きゅうくつな、他人のうたを、不安げに我慢してうたう必要はありません。逆にそう感じたら、きっと自分のうたではないのでしょう。
 見つけてください。
 見つかったらうたい続けてください。
 そして、その自分をじっと見続けてください。もう二度と忘れることがないように。
 さて、あなたにとって、自分のうた、とは何ですか?誰にもない、まねのできない、あなたにしかうたえないうた、とは何ですか?


<第0068号 2004年2月22日(日) 本日のこびん>

      波

わたしは口を開く
口のなかから波が飛び出し
なにかを探す

うけとめてくれるもの
ふりむいてくれるもの
はげしくぶつかるもの


   * 挿一輪 *
 話が通じないことがあります。
 まるっきり理解されないことがあります。
 思ってもいない反応をもらうことがあります。何でそんなふうにとるの?
 自分のことは自分がわかります。でも相手のことはわかりません。自分が変わることができても、相手を変えることができないのと同じことです。
 意思を伝える言葉を口から出すとき、音の波が飛び出して語りかけます。相手はその波を言葉に変えて理解します。テレパシーが波であるのなら、会話は一種のテレパシーになります。
 人間は言葉でコミュニケーションをはかります。コウモリが超音波で障害物を感知するように、人間は言葉という波で触覚のように相手を探ります。
 うけとめてくれる人なのか、はげしくぶつかる人なのか、仲間なのか、危険な敵なのか。言葉にさまざまな角度を持たせ、多角的な情報を得ようとします。
 口は元来、生命維持のために食物をとるための入り口だったのが、言葉を持ったためにすぐれた触覚や攻撃、守備の代わりをするようになりました。たとえ身体的な力関係で劣っていても、決してハンディーにならない、代替の武器を手に入れたのです。
 口を開いて言葉を発するということは、別の意味で生命維持に役立つようになったようです。言葉の恐ろしさ、魔力、不思議な力に、誰もが、日常のなかのあらゆる場面で、体験され、傷つけあい、癒しあい、ほんろうされています。
 だからこそ、口を開き、なにかを探し、伝える、その行為は、もっと慎重になってもいいのではないかと思います。相手が口を開くだけで、防御の体制をとってしまう。少しでも相手の口を開かせないために、自分の口を閉じてしまう。とても悲しいような気がします。誰もが自然に口を開き、お互いの波を構えることなくうけとめられる、日常でそんな関係がもてればいいですね。
 あなたの口から出る波は、いったい何を探していますか?


<第0067号 2004年2月19日(木) 本日のこびん>

      いつも

自分の生き様はなにか
いつも
こころにたずねながら
生きよ


   * 挿一輪 *
 等身大という言葉があります。自分と同じ大きさという意味です。
 からだの大きさは測れます。鏡を見ればわかりますし、普段の自分の立ち居振る舞いを見ていれば、例えば、このまま行けばあの鴨居に頭をぶつける、などということはわかります。
 よく、身の程、ともいいます。確かに見えるからだはその大きさがはっきりわかりますが、こころのほうはどうでしょう。器量や才覚、器などともいいますが、人間の度量の大きさというものは、見た目ではわかりません。
 まして、自分自身で把握することはとても難しいことです。
 本人より周りから客観的に見たほうが、的確な判断ができる場合が多いかもしれません。でもそれにしても、しっかりと見ることができる人がいないと、ただ周りの風評に振り回されるだけで終わってしまいます。
 自分の実力はいったいどのくらいか?
 それがわかれば、変に卑下して過小評価することもなく、妙に大きく見せかけて過大評価に笑われることもない、納得のゆく生き方ができるかもしれません。等身大の自分を正確に把握すること、それこそが現状の確認と次へのステップアップのために必要な情報かもしれません。身近にしっかりした指導者や目利きがいればいちばんいいのですが、ほんとうは自分で自分を見つめられればいちばんいいことです。
 方法はあります。いつも自分のこころと対話を繰り返すことです。こまめに聞いてゆくことです。
 なにか良さそうなものがあっても、ほんとうに自分に合っているのか、必要なのか、背伸びしすぎて無理をしていないか、をチェックすることです。
 上を見るのは必要です。少しランクを上げるのも不可欠です。
 でもあまりに大きな一段は、上ることもできず、逆に怪我や自信喪失にもつながります。自分の大きさを把握していれば、その段差をチェックできます。
 からだの大きさは毎日大きく変動することはありません。でもこころの状態は、そのときそのときの状態で、ジェットコースターのようになることもあります。
 だからこそ、まずそのときの自分を見て、そのときの自分にたずねるのが重要です。
 あなたも外になにかを探す前に、一呼吸おいてまず自分のこころにたずねてみませんか?
 たぶんこの世の中でいちばん、あなたの大きさに合ったことを、真剣に考えてくれると思いますよ。


<第0066号 2004年2月15日(日) 本日のこびん>

      井戸端会議

冬の空には
風の歌うたいたちが
それぞれの声を自慢しあっている

わたしも仲間に入りたいのだが
給食残りの持ち帰りのパンのように
ずいぶんとぱさついて
だれもふりむいてはくれない


   * 挿一輪 *

 冬は木枯らしが吹きます。冷たい風たちは電線に当たって音を立て、木に当たっては音をたてます。吹き抜けたかと思うと、次の木枯らしがやってきて、また音を震わせてゆきます。
 まるで、それぞれの風が、遠い北の国で見てきた自慢話を、歌に乗せて伝えているようです。木枯らしは、冬の吟遊詩人なのかもしれません。
 風はわたしにも当たります。でも、寒さに縮こまり、乾ききったわたしのからだでは、歌うような音は出ません。声を出せ、歌を歌えと、風がせきたてるのですが、どうやらわたしは仲間に入れてもらえそうにもありません。
 舌打ちをして、風はあきらめて吹き抜けていってしまいます。
 人と人との触れ合いも、震わせて音を出す、風との関係に似ています。
 相手という風が自分に当たって音を出す。自分という風が相手に当たってまた音を出す。
 吹いたり吹かれたりという関係が、うまくいけばコミュニケーションは良好なのでしょうが、うまくいかないと、乾いたときのわたしのように、歯車が合わないままに別れてしまいます。後には、気まずい思いだけが残ってしまいます。
 井戸端会議のなかに入るには、タイミングと度胸が必要かもしれませんが、1対1の対面では、真摯に向かい合うことが必要です。といって、ただまじめに受け答えすればうまくゆくとは限りません。
 少しウェットな潤滑油のような柔軟性が必要です。乾燥注意報は人間にも適用したいですね。
 パンも乾燥してしまうとおいしくありません。ただでさえ、体の水分が失われがちな季節です。カラカラの木枯らしに負けないように、水分を含んだこころをもっていたいですね。
 あなたにとって、乾かないようにする「こころの保湿」は何ですか?
 でも、こころの保湿剤、あったら便利でしょうね。


<第0065号 2004年2月12日(木) 本日のこびん>

      ボール

おもいっきり高く
もどってきたら
もっと高く
忘れてしまうほど高く
ボールを

つれて来い
春のつぶやきを


   * 挿一輪 *
 ボールを空高く投げ上げてみる。すぐに落ちてきます。
 こんどはもっと高く投げ上げてみる。でもやっぱりすぐに落ちてきます。
 何度でも何度でも、あきるほど投げ続けてみる。まるで幼子のようにあきることなく。
 日常とはボール投げのようなものかもしれません。投げ上げる姿勢や角度、気持ちは毎回少しずつ違っても、落ちてくる場所が少しずれるだけで結果は同じです。空も、雨だったり快晴だったり、風が強かったり、暗かったり、それでも同じようにボールは落ちてきます。
 繰り返したわりには、思ったほど急に変わった結果が出るわけではありません。
 でもあきずに繰り返していると、投げ上げている自分のこころのなかに、少しずつ変化が訪れてきます。毎日のなかでは分からないかもしれませんが、始めたときと比べればその変化はとても大きくなったことに気がつくはずです。
 ボールが投げ上げられてもどってくる。その行為が同じでも、結果は確実にひとつの方向に向かってゆきます。なにか大きな変化に期待してしまいがちなとき、遅々として進まないことにいらいらすることがありますが、本当はその奥深くで確実に変化はおこっています。
 決してあきらめないで続けてゆくこと、必要なのは意外と地道な積み重ねなのかもしれません。
 繰り返しの行為は、そのうち当たり前の習慣に変わってしまうのかもしれません。空気のような存在になったとき、次のステップに進む準備がからだとこころの両面で整うのかもしれません。
 手を抜かずにせいいいっぱい、日常を過ごすなかで、なにかひとつのことをやりつづけることを通して、高く投げ上げたボールは確かななにかをある日突然もたらしてくれます。でも、それは当然のひとつの結果として自分で勝ち取ったものなのです。
 おもいっきり高く何度でも、そう、続けてください。もうすぐ季節も春になります。あたたかな春になります。思いっきり春を受け取ってください。
 さて、投げ続けるボールとは、あなたにとっていったい何ですか?


<第0064号 2004年2月8日(日) 本日のこびん>

      移植ゴテ

移植ゴテ ピンクの
朝陽の道にひとつ

キラキラと霜でおおわれ
乾いた土まで
そのまま光った


   * 挿一輪 *
 移植ゴテ、知ってますか?細長い形のシャベルです。苗を植えかえるときに、深く土ごと掘れるので便利なものです。
 朝、道を歩いていたらその移植ゴテが落ちていました。たぶん、前の日にでも置き忘れたものでしょうか?土がこびりついていました。
 朝は冷え込みが厳しく、霜が降りていました。移植ゴテは、柄のところがピンクでしたが、土のついた先の部分まで、みごとに真っ白に霜におおわれていました。
 朝陽が昇って、濃い色の朝の光が差し込みます。移植ゴテの霜にもあたってキラキラと輝きます。古くなって、ふだんはもうあまり光らない先の部分まで、霜と、朝陽の光のおかげで、新品のような輝きです。
 シンデレラが12時を過ぎると元の姿に戻ってしまうように、霜はしばらくすると太陽の光で溶かされます。輝きを演出した光が、その輝きをなくしてしまう。
 なにか矛盾のようですが、朝一瞬のシンデレラ、それを与えてくれたことが、すてきに思えます。また元の、土がこびりついたいつもの移植ゴテに戻って、そのうちに庭の隅で忘れられてさびてしまうかもしれません。でも、まるで朝陽が宿ったように輝いたその朝のことは、ひとつの事実として残ります。
 なにかひとつのことを、ひたすらやってきて、ある一瞬、光が当たって、輝くことは、だれにだってあることだと思います。たとえ、それをだれかが見ていようといなかろうと、自分がその輝きを覚えていれば、生きてゆくうえで、ゆるぎない支えになるように思います。そう、条件が整えば、だれでも輝きます。
 不思議ですね、自分だけでは光ることができないのに、霜と朝陽の力を借りれば、古い移植ゴテだって、まばゆいほどに輝くことができるなんて。
 時には、力を借りることも大切なことですね。
 自分で光ることが一番ですが、もし自分で光ることができないものは、他の光を受けて光ります。
 光りにくいものは、光りやすくなるものが与えられます。
 だから、どんなときでもあきらめないで、しっかりと光を受けて輝いてください。
 あなたにとって、輝く瞬間はなんですか?


<第0063号 2004年2月5日(木) 本日のこびん>

      歌う人

ドアの入り口に立ち
小さな声で歌う人よ
駆けてゆく風景は
もう暗くて見ることができない

ときおり流れる光に照らされ
あなたの顔が瞬時に明らむ
あなたの目はなにを見ている


   * 挿一輪 *
 空いている車内にもかかわらず、その人は座りもせずにドア際に立っていました。
 わたしはすぐそばの座席に座っていたので、低く小さく歌う声が聞こえました。仕事帰りでしょうか?年配の女性、大きな手提げには、夕飯の買い物でしょうか、重そうに、それでもドアに寄りかかって立っていました。
 その人は歌っていました。曲は分かりません。ただ、その表情がとても優しすぎて、少し哀しくなるくらいでした。
 なにを思っているのでしょうか?
 外は真っ暗なので、女性の顔はドアに映っています。自分の顔を見ているようで、実は自分の顔をとおして外を見ているのでしょうか?それともまるで別の世界を見ているのでしょうか?
 踏切や街灯のある場所を通過すると顔が照らし出されます。目をまぶしそうにもせずに、じっと一点を見つめて歌い続けます。まるで、その目が歌っているような錯覚におちいります。唇はほとんど動いていません。
 車内のまばらな乗客はだれも関心をもっていません。見ているのはたぶん、わたしだけ。
 乗ってから2つ目の駅で女性は降りてゆきました。ほんのわずかのあいだのできごと。たぶん女性はわたしのことなど気が付いてはいなかったでしょう。
 別に声をかけたわけでもなく、目が合ったわけではありません。でも、女性が降りた後のドアの空白、そこには、ドアに映った目と、その低い歌声が体温のように残っていました。
 あるものが目の前からなくなっても、妙にその後の空間に残像が残ることってありませんか?
 もしかしたら、それは女性を見ていた、わたし自身の意識がもたらしたものかもしれません。ドアに寄りかかって、低い声で歌っている。それはわたし自身だったのかもしれません。
 それとも、もっと違うなにか大きなものの動きを、わたしが感じかけたのかもしれません。
 そういえば、立春。もしかしたら、出番をじっと待つ春の姿だったのかもしれませんね。
 あなたにも、そんな経験ありませんか?まるで投影した自分を見るように、不思議な光景を目にしたことが。


<第0062号 2004年2月1日(日) 本日のこびん>

      凧

なにもない
だれもいない
輝く太陽の光と
吹き抜ける風のほかには
青いものもなにもない

その空に一つだけ凧がいる
雲ひとつない空に
ぼくの凧だけがいる


   * 挿一輪 *
 空は青い。
 みんなが教えてくれたことだけど、そこにはなにもない。
 青い天井も、青い水も、青い空気もない。
 青い魚がいっぱいひしめいているのでもなく、青い花がびっしりと咲いているのでもない。
 当たり前のこと。
 でもだれも空に上がって確かめようとしない。
 確かに鳥じゃないから翼も羽もないから、あの青い空の中に入ってゆけるわけではなし、飛行機だって空港まで行くうちには、夜になってしまう。
 風船をつけても、体は紙のように軽いわけではないから浮かないし、それならいっそ凧をあげて、あのいちばん青さの濃いあたりを、ぐるぐるぐるとかき回してみよう。
 なにもひっかからないのならきっとなにもないはずさ。
 というわけで、凧をあげてみました。
 今はどこも空き地がなくなって、少し前まで凧あげができた空き地もいつのまにか住宅が建ってしまい、もう、ずっと離れた川の土手まで行かないと無理になりました。実際やってみても、ひっかかるものはないのですから、やはり空にはなにもないのですね。
 当たり前のことで、ばかばかしいですか?
 でも日常で当然と思われている中から、小さな疑問が湧いて、それをもとにして発明され商品化されたものも多いと聞きます。疑うことも必要ですが、いちばんかんじんなのは、自分で実際に確認してみるという作業が大事なのではないでしょうか。
 科学では新しい発明があると、確認試験があるそうです。再現性というものですが、実際に同じ条件の下で、同じ現象を起こすことができるのか?できれば承認、できなければ単なる偶然の現象と片付けられてしまいます。
 それにしても、あらゆる物や情報があふれている現在において、自分の手で確認することができるものは、意外と多いのではないのでしょうか?でも、たいていの人は、他人の判断や批評等をそのまま受け入れていませんか?
 さりげない身の回りのできごとを、他人の手にまかさず、自分の手で実際に試して見る姿勢が必要だと思います。
 あなたが手始めに検証できる、気になる疑問、ありませんか?
 それにしても、お正月でもあまり凧あげをみかけなくなりましたね。



このページのトップに戻る

Copyright© 2004 Kokoro no Kobin