2004年4月のこびん

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<第0087号 2004年4月29日(木) 本日のこびん>

      生きるということは

生きるということは
あなたの時間を使うということだ

生きるということは
あなたの生命を使うということだ


   * 挿一輪 *
 時間は意識しなくても流れてゆきます。1日24時間、1時間60分、1分60秒、時計の正確な針(デジタルならば数字そのもの)が動きます。何もしなくても、眠っていても、外の時間は動きます。
 呼吸をして、食事をして、適当に動いて、眠って、体は正確に動きます。あなたの体を維持するために、生命体も意識しなくても動いてゆきます。
 客観的に見れば、あなたの時間を使い、あなたの生命を使って、生きている、決して間違ってはいないのです。それは生まれてから、死ぬときまで、つまり、あなたがいる間だけ続きます。逆に言うと、あなたがいる間のみ、時間と生命をあなたのために使うことができます。
 同じことですが、ずいぶん聞こえ方が違いますね。
 あなたに用意されたものを、積極的に使いこなせるのなら、あなた独自の世界を作ることができます。そのためには、いかにあなたの時間を、確実にあなたのために使うかです。
 一番確実な方法は、決して即効は期待できませんが、継続することです。ひたすら時間をかけることです。天才ではない限り、多少の得手不得手特技はあろうとも、そうは変わりません。
 差がつくのは、関わった時間と努力です。あなたを生きるということは、あなた自身に関わった時間と、あなたのために使った努力の度合いの結果です。
 ね、いかに上の空で生きていたり、考えないで生きている時間の多いことでしょう!TVや新聞、世間の意見をそのまま受け入れることは、楽で便利です。しかし、面倒なことですが、あえて流されずに、あなた自身で考えてみること。そこで、あなたのために、あなたの時間を使う習慣をつけてください。
 時間を生きる、生命を生きる、それの一歩上をゆく、あなたを生きる、に挑戦してみませんか?


<第0086号 2004年4月25日(日) 本日のこびん>

      にじ

にじは生きている
にじを見ているあなたも生きている

決して
忘れられることもなく


   * 挿一輪 *
 にじははかないものです。
 雨と太陽が作り出すわずかのあいだのコミュニケーションです。本来は相反する二つの現象が、たまたま出会ったことによる七色の宴のようなものかもしれません。
 「にじのふもと」という言葉があります。にじの始まるところです。あそこに行けば、にじがどこから湧いてくるのかがわかる。にじの立ち上るところ、行けたらどんなにすてきなことでしょうか。
 でも、近づいてもにじのふもとにはたどりつけません。空中に浮かぶ光と水のおりなす夢の帯、手で触ることはできません。
 蜃気楼のようなものでしょうか?あなたの目に映っている七色の夢は、まぼろしでしょうか?
 手に触れられなくても確かなものはあります。あなたがにじを見ている目の前の事実です。あなたの目がとらえている、一瞬の感動。
 目の前の空におこっていることが、そのままあなたの中でおこっています。「にじのふもと」はあなたの中にあります。追いかけていっても見つからない、ついには自分のところにいた「青い鳥」のように。
 にじを見たことをあなたは忘れません。あなたの中で、目の前の光景を鮮明に思い出すたびに、にじはあなたの中から立ち上ります。あなたが「生きている」からこそ、にじが「立ち上る」のです。
 あなたのにじは、あなたにしか見えません。それが生きている証です。忘れられない、記憶している、それも生きている証です。
 不安定で分かりにくいものがたくさんあります。何を基準にしていいか?手探りで探すことがあります。でも、分からなくなったら、基本に戻ってください。
 基本とは?あなた自身です。にじをじっと見つめているあなた自身です。生きているあなた自身です。
 だって、あなたはにじを忘れません。にじもあなたを忘れません。
 あなたの中から立ち上るにじのふもと、たずねていって、そっと触れてみませんか?


<第0085号 2004年4月22日(木) 本日のこびん>

      好き


カサをさして歩かなければならない


カサをさして歩くことができるなんて


カサをたたんで立ち止まってみたい

あなたはもう
自分をきっと好きになれます


   * 挿一輪 *
 雨、というだけでゆううつになります。
 外に出たくない。急ぎの用事でなければ後回しにしたい。仕事の日の朝の雨は最悪です。おまけに月曜日だったらなおさら。
 雨は嫌いですか?濡れるから。カサをささなければならないから。カサが荷物になって邪魔だから。湿気が多くてイライラするから。滅入ってしまうから。雨は嫌われ者です。
 でも同じ雨でも気分によって感じ方がずいぶん違います。
 とってもいいことがあった。大好きな人に会いに行く。新しいカサとコートを買ったから。
 そして。
 じっと雨を見ていると雨の形がおもしろい。カサに当たる音がリズムを作る。一つ一つが光を含み、周りの景色を溶かし込んでいる。
 雨一つをとっても、様々な捉え方があります。ほとんどの人が否定的にとっていますが、考え方を変えて、友達を見るように観察してはどうでしょうか。
 雨自体に、嫌なものはありません。決めているのは、見ているあなたです。先入観をリセットしてみてください。濡れるのを嫌がらずに、そっと雨の中に手を出してみてください。
 好きになるには、好き嫌いを離れて観察するのには、あなたの気持ちの切り替え一つです。
 ね、できたでしょう。
 それでは今度はあなた自身に向けてください。嫌なこと、失敗したこと、劣等感。嫌いになってしまった自分を、同じようにリセットしてみてください。
 ね、あなたは別に嫌われ者でもなく、避けてしまうものでもない。決め付けていたもう一人のあなたをはずして、本来のあなた自身にもどってみてください。本当は愛すべきものが多いあなた自身。あなたはもう、自分を好きになりはじめています。
 あなたが自分を思いっきり好きになるのは、どんなときですか?


<第0084号 2004年4月18日(日) 本日のこびん>

      海

どこから
海がはじまるか知っているか

波打ち際からでも
あの水平線からでもない

海を思った
あなたのこころからはじまるんだ


   * 挿一輪 *
 目の前のもの。
 確かにあなたの目がとらえています。でもほんとうに見ているものはただ一つだけ。あなたが関心を寄せるもの。
 その他大勢は、視覚を横切るエキストラ。あとにはなにも残りません。
 一つ実験をしてみませんか?
 道を歩いていて、あ、これいいな、と思ったら、写真を撮ってみてください。デジカメを持っていたらすぐに撮れるけれど、高画素の携帯でもかまいません。帰ったらプリントアウトしてみてください。トリミングをしないで、撮ったものそのままを。
 興味のあるものだけを撮ったつもりが、あらゆるものが写っています。標準のレンズではほぼ人と同じ視覚の範囲が写ります。つまり、それだけのものが視野に写っていたのです。でも、認識し記憶するのはほんのごく一部です。
 ちなみに、自分が見ているもの、伝えたいものだけを取れるようになると、写真は格段に上達します。
 この特性を逆手にとると、目の前にあるものを視野に入れているのにも関わらず、まるで違うものを見ることができます。思いつめたり、何かに集中しているとき、目の前のものすら記憶に残りませんね。知り合いとすれ違っても気がつきません。つまり、目の前のものに無関係に、あなた独自の映像を、常に呼び出すことができます。
 それは突然浮かびます。前後の脈略に関係なく。
 たとえば、海を感じるときは、どんなときですか?
 南風がとても強く、その中に汐の香りを感じたとき。波打ち際に似た音を耳にしたとき。空を見上げて、雲がまるでどこかに湾の形に見えたとき。そして思い出の一場面で急に海の場面が浮かんだとき。
 まるで海に関係ないところにいても、その瞬間にあなたのこころの中から海が始まります。
 同じように、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、はっとしたこと、もうすでにそのことは終わっているのに、今現在体験しているかのように浮かんできます。
 こころのコントロールは、ひとつひとつの風景や感情に注目してみれば、思いのままにできるのかもしれません。すべてはあなたのこころの中からはじまります。これはあなたにとって、とても大切な生き方のヒントになると思います。
 あなたは、今、どんな場面を作り出そうとしていますか?


<第0083号 2004年4月15日(木) 本日のこびん>

      マスク

マスクは大きな白い鼻
成虫になったばかりの
てんとう虫
案内人のようにちょこり
とまる


   * 挿一輪 *
 花粉症の季節です。マスクを付けた人を見かけます。
 人間だからマスクとわかりますが、動物や虫たちが見たら驚くでしょう。白い大きな鼻をもったお化けのように、感じるかもしれません。
 知らないもの、見たことのないもの、最初は得たいの知れない恐ろしさを感じます。でも、しばらくすると、遠くから様子を見ていたものが、少しずつ、怖いながらも興味津々で近寄ってきます。
 周りにだれもいないときには、怖さと興味とを両天秤にかけながら、最後にどちらかが勝って、逃げるか、もっと近寄るかします。
 同じように見ているものがたくさんいると、お互いをけん制することも入ってきます。一つのものを巡って駆け引きをする様は、日常の生活の中でも以外に多く見られるかもしれません。
 そこで、率先して手を出すもの、じっと相手の出方を伺っているもの、自分は動かずに相手をけしかけるもの、自分が取り残されるのがいやなので足を引っ張るもの、まるで興味がないふうを装ってそっと様子を探るもの、さっさと逃げ出すもの、いろいろな性格がみられます。
 実際、新しいものに手を出すものは、全体のごく一部です。アイデアにしても、ビジネスにしても、行動する人は少数派です。どんな優れたセオリー、道筋があろうとも、絵に描いた餅のようにじっと見ていては何もおこりません。危険や変化がない代わりに、状況は一生変わりません。
 瞬時に反応して動く人にはリスクが伴います。でも最大のメリットは、どっちにころぼうと、体が瞬時に反応する習慣が身につくことです。それを、バクチととるか、行動力ととるか、取り方によって、あなたはどちらかのグループに所属します。
 どちらが良いとか悪いとか決めることはできません。良い、悪い、は、結果から見た判断だからです。
 目の前に問題があったら、解くか、無視するかしかありません。マスクにとまるてんとう虫、近寄りもしないてんとう虫、マスクをしているあなたはどちらのてんとう虫が可愛いですか?
 え?虫は嫌い?
 よく観察してみてください。苦手なものをじっと観察することができるようになれば、新しい道が開けますよ。


<第0082号 2004年4月11日(日) 本日のこびん>

      菜の花

菜の花をじっと見ていた
菜の花をじっと見ていた

風が少しいらだって
震えるように渡ってきた


   * 挿一輪 *
 何かをじっと見る、凝視することはよくあります。
 集中力がある。ほめ言葉にも使われます。でも、何かをじっと見るということは、その対象物以外を無視しているということです。見えていないということです。たとえ寄り添うように真横に並んでいても、決して目に入らないということです。
 視野が狭い。こんどは、否定的な意味になってしまいます。
 ただ一点をじっと見ている、という一つの行為が、両面からの評価を受けます。
 あなたがそうしたい、という意思の下に行っているのならかまいません。困るのは状況も見ずに、例えば、集中しなければいけないときに、他のことにまで気を取られたり、逆に全体を見なければいけないときに、一点にこだわってしまったり、その切り替えがスムーズにできないことにあります。
 周りから見ていると、どうしてあんなに意地を張っているのかな、と見られることがありますし、自分でもわかっていながら、視野を大きく開くことができないときもあります。
 ふっと力を抜く、ちょっと間をはずしてみる、自分に対して、息抜きでフェイントがかけれるようになればたいしたものですが、入り込んでしまうと、それは難しいですね。
 じっと見ることは、その部分を切り取っているということ、裏を返せば、周りを切っているということ、を認識したいですね。
 これは目だけではなく、耳、すなわち音にもいえることです。実際、聞きたいと思っている音を選択できる能力があるからこそ、気が狂わずに生活できます。目のように、自分の意思で閉じられない耳は、大変なストレスになってしまいます。例えば、補聴器です。調節しないと、あらゆる音を増幅してしまい、何の意味もなさなくなります。
 意識、すなわち、こころもしかりです。一つのところに凝り固まっていると、肝心なときに周りがわからず、状況に応じた判断ができなくなりますね。
 菜の花をじっと見ていても、風の言葉に耳を貸せるような、柔らかな気持ちが持てたらいいですね。
 ここ!、というときに、周りを見ることができたら、また、新しい発見につながるかもしれません。あなたは、大きな視野を持つことが必要ですか?


<第0081号 2004年4月8日(木) 本日のこびん>

      混沌

何もないわけではない
ありすぎるのだ
散らかった部屋のように
雑然と積み重なっているのだ


   * 挿一輪 *
 あなたの部屋はきれいですか?きちんと整理整頓がされていますか?そこまでいかなくても、自分の探したいものがどこにあるかわかりますか?
 TVの番組でよく「片付けられない症候群」の部屋を映し出しています。もう何ヶ月の掃除もしないで、自分の寝るところすら確保できない部屋。物に物が積み重なって、もう片付ける気力すらなくなすような部屋。
 ぎょっとしますね。笑ってみたり、顔をしかめてみたり、だれもが「自分はそこまでひどくはない」と人事のように画面の中をのぞいています。
 そう、見回せばすぐに現状がわかります。確かにあなたの部屋はきれいです。多少散らかっていてもTVが取材に来ることはありません。
 では、あなたのこころの中はきれいですか?すっきりと整理されていますか?どこに何があり、どういう考えを持っていて、どういう信念の下に、どういう行動をとるかわかりますか?
 部屋の中と違って、こちらは一目ではわかりません。見ることができないだけではなく、手探りで探そうにもその方向すら見当がつきません。
 こころの中は、程度の差こそあれ、だれもが想像以上に雑然として、もはや手の付けられない状態です。
 そこには、あなたに関するあらゆる物が放り込まれています。必要不必要に関わりなく、あなたの歩んできた時間そのものがつまっています。
 人はよく、途方にくれたとき、自分の中には何もない、と立ち止まります。でも、それは正しくありません。あまりにもありすぎるのです。ありすぎて、積み上がった物に占拠された部屋のように、行動を妨げ、自由を妨げています。
 混沌とは、「物事が入り混じって、見分けのつかないさま」すなわち、玉石混合のことです。ほとんどの人のこころは、混沌としています。余程の整理好きか、余程の大物か、余程のうつけものか、あなたがそのどれもに入らないなら、TVの番組が取材に来てもおかしくないくらいむちゃくちゃな混雑ぶりです。
 さて、わたしには何もない、とお嘆きのあなた。外で何やら探そうとしないで、あなたのこころに目を向けて、いっそその中に飛び込んでごらんなさい。今までの、行動でも、経験でも、記憶でも、何でも積み重なったものがあなたを待っています。あとはあなたの好み次第。
 懐かしい何かを見つけますか?妙に落ち着いて眠りますか?はじから整理を始めますか?いっそ、まとめて掃除を始めますか?
 こころはあなたを待っています。時々、雨戸を開けて、カーテンを開けて、窓を開けて、新鮮な風を通してあげてくださいね。
 あなたのこころは、いまどんな宝物をしまい込んでいますか?


<第0080号 2004年4月4日(日) 本日のこびん>

      サクラ

だれのでもない
あなたの夢

サクラの花が咲くように
あなたの夢も咲く


   * 挿一輪 *
 サクラが満開です。
 真下に立って見上げると、一つ一つの花にじっとみつめられているようです。調子の良いときは素直に花の喜びを受け入れるのですが、気分が落ち込んでいるときなどはのしかかるような圧迫感を感じます。
 サクラは全力で咲いています。力を出し切れずに中途半端な気持ちでいると、サクラの思いっきりの良い誇らしさに耐え切れなくなります。劣等感でしょうか?大きなエネルギーを受けるには、受ける側も大きなエネルギーが必要です。
 サクラの花にはあなたの中の「咲くもの」で対抗したいですね。生きるために支えになっている「夢」も、その一つかもしれません。
 人間というものは、妙に複雑で面倒くさいものになってしまいました。生きる意味だの、求める理想だの、掲げる目標だの。単純に生きてゆくこと意外に、何と多くのストレスを好んで抱え込んでいるのでしょうか。もっとシンプルに生きてゆけばいいのですが、いまさら回帰しようとしても、社会生活を形成している以上、ほとんど不可能に近いのかもしれません。原点に戻って考えるといっても、原点そのものがすでに忘れ去られてしまい、考えるという行為自体も、複雑化の張本人かもしれません。
 その中で、唯一直感的にできることは、あなたの目指すところに向けて体を動かすことかもしれません。
 行動することです。でも、行動するには、一つの衝動が必要です。
 サクラの「咲くぞ!」という内なる声。同じように夢も「咲くぞ!」と信じて行動させる内なる声。
 生命の持っている、共通の直感にしたがってゆけば、必ず思うところに導いてくれるように思います。
 満開のサクラを満面の笑みで迎えられる!あなたはどんな思いで、満開のサクラの花を見ていますか?


<第0079号 2004年4月1日(木) 本日のこびん>

      生きているときは

一人水仙
ボテグロ
綱渡りレンギョウ

声をかけながら
自分の夢を話そう

生きているときは
生きている友だちが
ほんとうに好きになるものだ


   * 挿一輪 *
 春です。
 いつもの道を歩いていると、顔なじみの友だちに会います。群れから離れて、一人ぽつんと咲いている「一人水仙」。動くのが面倒くさそうにのっそりと歩く、太った黒猫「ボテグロ」。細くしなった枝の先に、しがみつくように咲き始めた「綱渡りレンギョウ」。
 みんな人間ではありませんが、生きている「いのち」たちです。生きている友だちです。
 夢を話します。見かけたとき、通りかかったとき、うつむきながら、少し照れながら、自信たっぷりに。その時の気分次第で身勝手なものですが、友だちは黙って聞いてくれます。相槌を打つわけでもなく、うなずくわけでも、返事をするわけでもありません。それでも、夢を話すと、じっと聞いてくれているのがわかります。
 人間の友だちも、じっと話を聞いてくれるのは、きっと良い友だちです。話しの腰を折ったり、いつの間にか立場が逆転してしまったり、気がおけないという意味ではいいのかもしれませんが、語る夢を、ただじっと聞いてくれるような友だちを、一人でもいいから持ちたいものです。
 わたしたちが生きている以上、友だちも生きているものの方がいいですね。人間に限らず、花も、猫も、生きています。生きているともだちが好きになります。夢を話して、夢を聞いてくれる友だちが好きになります。
 「夢」があって、「語る」ことによって、友だちができ、好きになる。好きになったら、気持ちのいい空気の中で、「夢」はきっと、気持ちよくかなえられるのではないでしょうか?
 そんなことってありますか?
 はい、夢を書いたり話したりすることによって、実現の可能性は高くなります。話すことや書くことによって、自分にもはっきりと聞かせたり見せたりすること、その相手を好きになることによって、相手から応援の力をもらえること。
 確認と援助。この二つが夢実現の最短距離のような気がします。
 あなたも夢を語る相手を見つけてください。人間でなくてもかまいません。あなたが生きているかぎり、生きているものすべてが友だちになり、好きになる可能性があるのですから。
 あなたの夢を語れる、ほんとうの友だちは、どこにいますか?



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