<第0096号 2004年5月30日(日) 本日のこびん> 飛行機雲 真っ白な軌跡 残された飛行機雲 あのあざやかな白のなかには あなたはもういない * 挿一輪 * 見上げれば青空。新緑のころの抜けるような青空。宇宙とのあいだが不思議に感じられる青空。 そこに一筋の飛行機雲。思わず立ち止まってじっと見てしまいます。 飛行機雲はジェット機から出る水蒸気です。高速の置き土産。キラキラと銀色や白に光る機体を見るのもいいですが、飛行機雲の方がいつまでも印象に残ります。 不思議ですね、白い雲の中には、もう機体は通り過ぎていないというのに。 どこかで見た光景ですね。そう、いつも独創的な思い付きを持って、駆け抜けてゆく人の姿に似ています。 駆け抜けてゆく本人の姿は、リアルタイムでは捉えられません。だれもが休んでいる間に、気がついたときには、もうずっと遠くを走っています。ただその軌跡は残ってゆきます。 わたしたちが見るのは、いえ、気がつくのは、走り去った後の軌跡だけ。だから、気がついたときに声をかけようとしても、その人の姿はもうありません。きっと別の空で、次の飛行機雲の航跡を描いているにちがいありません。 特別に才能のある人でしょうか。 いいえ、だれでも白い軌跡は描けます。真っ青な空と、駆け抜けるスピードがあれば。空はそのときの環境です。 どんなに見事な飛行機雲ができても、バックが曇り空だと目立ちません。抜けるような青空を待つことです。 でも、駆け抜けるスピードは、一朝一夕には作ることができません。いざというときに高速で飛べなければ、肝心の飛行機雲が作れません。常日頃から目標を決めて、全力で駆け抜ける習慣をもつことが必要です。 何かステキなことを見つけて、あなたが同じことに挑戦しようと思うとき、あなたは飛行機雲の軌跡を見ています。飛行機はもう次の空を飛んでいます。 一歩先を行こうとするなら、あなたの飛行機雲を作ることです。 真っ青な、雲ひとつない空に、あなたが最初の軌跡を刻む。 みんなが見とれているときには、あなたは次の空に飛び出している。 ね、一度はやってみませんか? あなたにとっての、空、そして、軌跡、それは何ですか? <第0095号 2004年5月27日(木) 本日のこびん> 自転車 手段のための自転車と 目的のための自転車と * 挿一輪 * 自転車が好きな人がいます。 通勤に、買い物に、便利だからという人と、自転車そのものが好きな人と。 自転車は道具です。手軽に使え、歩くのより楽な、優れた道具です。乗れればいい、完成品の自転車を買って、すぐに乗ってゆける、手間がなくていい、たいていの人は、そう思います。 自転車そのものが好きな人は、道具もさりながら、その形と機能性に惹かれます。自分でパーツを選び、組み立て、チューニングをする。そこまでゆかなくても、専門店で各パーツを選び組み立ててもらい、自分だけのオリジナルのバイクを作り愛用する。 ここまでくると、自転車自体が目的になります。ただの乗る道具から、持っていること自体を楽しむ、趣味になってゆきます。 普段使っているさまざまな道具は、この二面性を持っています。 今こうして、キーボードをたたいているパソコンも、入力をすることができるワープロ機能としてのひとつの道具であるということと、マザーボードやCPU、メモリーからドライブまですべて選んで組み立てる趣味のための道具という二面があります。 音楽が聞こえればいい、小型プレーヤーを所有すること、一方で、見ることまで楽しむ真空管のアンプ。 足として走ればいい車と、どんなにお金がかかっても手に入れたいスポーツ車。 だれでも写せるカメラから、露出を計り、絞りと速度を手作業で設定する大判のカメラ。 普段何気なく手にしているものなら、なおさら、その利便性と、趣味の領域の差は大きいものです。 ところで、仕事をしている、生活をしている、毎日の時間。食べるための、手段としての、追われる時間になっていませんか。 本来、生きることの目的は、自分を生きることです。 決して他に二つとない自分自身を生きることです。 生きる手段としての生活は必要ですが、自分を生きるという目的をなくしては、ただ何もしないで一生を終わってしまいます。 自分という体を、単なる生きるための道具と見るか、自分という、たった一つのオリジナルの形を作り上げるための、一生をかけてのプロジェクトと見るか、どちらが夢があり楽しく生きられるか、わかりますね。 あなたは、あなたを生きるための手段ではありません。 たった一つのあなたを生きるという目的のために、作り上げてゆくものです。 さあ、あなた自身に徹底的にこだわってみませんか、世界でたったひとつのオリジナルのあなただけの生きかたに。 <第0094号 2004年5月23日(日) 本日のこびん> 会いたい あなたのことばを くりかえしてみる なにげないくせを まねてみる * 挿一輪 * 好きな人に会えないとき、たまらなく会いたくなったとき、あなたならどうしますか。 好きな人と小さなすれ違いができたとき、思っていることがわからなくなったとき、あなたならどうしますか。 できるだけ同じ動作や行動を通して、こころのつながりをもう一度取り戻そうと思いませんか。いつもなにげなく聞いている口癖をつぶやいてみる、ちょっとしたしぐさをまねしてみる、そのことで少しでも近づいてみたい、小さなギャップを埋めてみたい、そう思いませんか。 同化したいなら、まずそのものになりきるのが一番の方法です。 たとえば物忘れ。どこにしまったんだっけ。今、なにをしようとしたかったんだっけ。突然の事態を解決するには、巻き戻しのように、もう一度少し前の行動から繰り返してみると、思い出すことがあります。 確かにものまねは進化のツールです。巧みの技も、どんなに説明してもピンとこないはずです。職人の技も、教えられるより、みようみまねで盗め、といわれます。 あなたがなにか新しいことを始めようとしたとき、今までやってきたけれどうまくいかなかったとき、同じことを苦労もなくやりとげてしまう人の行動をよく観察して、その行動をまねすることです。 人まねなんていやだ、オリジナルが欲しい、その気持ちはわかります。でも、まずまねすることで、今までで一番優れたものが肌で感じられます。それから、おもむろに個性を付け加えてゆくことがいいように思います。 いきなりまっさらから、新しいものを見つけ出すには、それ相応の才能がないと難しいものです。まずはまねをすることにより、あなたの本当に出会いたいものに会える確率が高くなるように思います。 あなたは、猿真似だと笑っていますか、それとも、じっと観察して自然と体を動かしていますか。 批判はたやすいのですが、行動は限られた人だけがおこせます。ひとつひとつの小さな場面では差がつかなくても、積み重ねれば取り返しのつかないほどになります。 あなたも、身近なところから、小さなまねを始めてみませんか。 <第0093号 2004年5月20日(木) 本日のこびん> ほんとうの ほんとうの 自分なら 自分のために生きるはずだ ほんとうの いのちなら いのちのために生きるはずだ * 挿一輪 * たったひとつです。 重いとか軽いとか、大きいとか小さいとか、器用だとか不器用だとか、まっすぐとか曲がっているとか、比べるもののないほど、たったひとつのあなたです。 まわりを見回してみてください。同じように見えても、まるっきり同じものはなにひとつありません。たったひとつのあなたは、なぜ、同じように見えても、まるっきり同じもののないあなたになったのでしょう。スペアがあっても不思議ではありません。バトンタッチできても不思議ではありません。 でも、どんなに辛いときでも、どんなにいのちをかけることの前でも、あなたは代わることができません。それは、あなたが、あなたのためにだけ生きているからです。 誤解しないでください。あなたは、同じものは二つとありませんが、世界にあなただけがいるわけではありません。 いのちのひとつひとつが、「あなた」です。それぞれの「あなた」がそれぞれの「あなた」のために生きています。なにをやってもいいという意味ではありません。あなたのために、たとえば、地球を破壊してもいいというわけではありません。それをふまえて、あなたのいのちは、あなたのいのちのためにだけ生きているといいたいのです。 だってあなたのいのちを維持するのは、あなた以外のだれもしてくれません。その気持ちがあってもだれも代わることはできないのです。 あなたが生きること、それはあなたしか責任をもって遂行することができないのです。 大切にしてください、あなたを。 ほんとうの姿をみつけてください、あなたの。 生きている限り、決してあなたを粗末に扱わないでください。 あなたしかいないのですから。 もういちど、伝えます。 あなたしか生きることができないのですから、あなたを。 <第0092号 2004年5月16日(日) 本日のこびん> 影 鳥の影は踏めるけれど * 挿一輪 * ツバメが巣作りを始める季節になりました。スズメは朝うるさいくらいに鳴き交わしています。新緑のまぶしさとともに、鳥の声に満ち溢れる季節になりました。 日差しも強くなり、飛ぶ鳥の影が足元をよこぎります。影踏みに例えて、えいっと、鳥の影は踏めますが、鳥ははるか高く頭上を飛んでゆきます。そう、飛ぶ鳥には触れることさえできません。 見上げると、空は気持ち良さそうです。鳥の視線で見てみたら、新しい世界が開けます。地上にどんなに近くても、すぐそばにいても踏めない影があります。なぞなぞ風にいうと、「踏んでも踏んでも踏めない影、なあに?」。 すぐにわかりますよね。答えは、「自分の影」。 いつも寄り添っていながら、自分の影は決して踏むことができません。触れることができない鳥の影は踏めるけれど、いちばん身近な自分自身の影は踏むことができません。 考えてみれば、いつも一緒に寄り添いながら、自分というものはいちばん不可解で、コントロールしにくいものです。それならいっそ、空高く飛んでいる鳥に、憧れの気持ちを持っているほうが楽なのかもしれません。 でも、現実に自分がここにいるからこそ、この踏めない影はあるのですから、この影を確認することはとても貴重なことなのです。踏めない影とずっと付き合ってゆくからこそ、その影の伝える意味を追いかけてゆく価値があるというものです。 その結果として、自分自身では踏めない影が、いつか、鳥の影のように誰かが見上げる影になるような気がします。 あなたの踏めない影、いったいどんな形をしていますか? <第0091号 2004年5月13日(木) 本日のこびん> おとしもの 雨上がりの道に 青梅の実 ひとつ * 挿一輪 * 道を歩いているといろいろな物が落ちています。別に物欲しそうにきょろきょろしているわけではないのですが、ふと目に留まるものがあります。 今回は青梅でした。強い雨に枝から落ちたのでしょうか。生垣の下、道路の隅に光っていました。熟して落ちるにはまだ日が浅いので、鳥も食べにはきません。ものめずらしげに覗きこむのは、散歩の途中の犬くらいでしょうか?臭いをかいだだけで、すぐに歩いていったしまいます。 あなたは、道に青梅の実が落ちていたらどうしますか。わたしは思わず上を見上げました。確かに、実は真下か、その近くに落ちたのでしょうから、見上げれば梅の木があるはずです。でも見つかりませんでした。 落ちた後、水に流されてここまで来たのか、風に飛ばされてころがってきたのか、子どもでも足で蹴飛ばしてきたのか、近くに実をつけていた木はありませんでした。 でも、梅の実ひとつで、いろいろな想像ができます。小さな物語なら、一つや二つ、すぐにできてしまいます。ある結果から、その理由や、原因、そこまでに至った経路などを考えていると、小さな推理小説を読んだ気になってきます。 身の回りを見回せば、そんなきっかけは、山のようにあふれています。ただ、気がつかないだけ、見ていても、関心のないものは、目は情報を脳に伝えません。都合のいいような、悪いような、それでいいのなら、まことに優れた機能です。 でも、気にしだすと、けっこう目に留まったり、頭の隅に残ったりします。要は、訓練や習慣づけ次第で、あなたは道の片隅に落ちている、どんなに小さなものでも見逃さないようになるかもしれません。それが、あなたの人生にどうプラスになるか、答えはすぐには出ないと思います。そんな暇があったら、目的地にまっすぐよそ見をしないで向かいなさい、そんな学校時代の先生の声が聞こえてくるような気がします。 雨上がりの道に見つけた青い梅の実。 そのおかげで、これだけのことを考えられるなら、たぶん、わたしにとっては、大きな実になったと思うのですが。 あなたは、道に何かを見つけて、しばらく考えたことがありますか? <第0090号 2004年5月9日(日) 本日のこびん> うさぎ 白いゆめを残しておけば いつか色づけすることができる たとえそれが燃えた灰でも 閉じたままの白いノートでも * 挿一輪 * だれでもゆめを持っています。 日替わりで変わるほど豊富なゆめを持つ人もいれば、たったひとつのゆめをあたため続ける人もいます。 ゆめはその形がたとえ似ていても、その人が持つことによって、さまざまな色付けがされてゆきます。それがとても魅惑的で楽しいと思う人が多いと思いますが、なかには逆に負担になって、ゆめを自分の手で封印してしまう人もあります。ゆめは魔物のように取りついて、ついには生き方を狂わしてしまうことすらあるのです。 しかし、ゆめのまるっきりない人生もさびしいものです。ゆめの形だけしっかりと思い描いて、その色づけに時間をかけてゆくのが、いいように思います。 ゆめを捨てず、ゆめに飲み込まれず、あくまでも、ゆめを持つあなたが主人公、そういうことですね。 ゆめは途中で、挫折するかもしれません。もうこんなもの、わたしには向かない。そういって、ノートを閉じるようにしまってしまったり、失恋の後のラブレターのように燃やしたりするかもしれません。もう二度と開かないと誓ったノート、真っ白な灰に戻った日々。 でも、こころのどこかには、ゆめが残っています。少しずつ色づけしたものが、真っ白に戻っただけ。またいつか、取り出して、色づけをはじめる日がくるかもしれません。今度は別の色を、その真っ白なキャンバスに塗り始めて。 だから、決してゆめの形は捨てないでください。こころの奥底のどこかに置いておいてください。そして、ふと気がついたときに、手にとって、また始めてください。時間がたつのは、また新しい気持ちで自分を眺められるという利点があります。 さあ、真っ白なうさぎを、あなたのこころの野原で跳ねさせるように、あなたのゆめのかたちを、持ち続けてみませんか? <第0089号 2004年5月6日(木) 本日のこびん> しまっていないで 隠しておいたわけでもなく ただ片隅に 使い道もなく置いておいたもの これなあに * 挿一輪 * いつのまにか物があふれてきます。 本やCD、雑誌や切抜き、さまざまな資料。整理整頓のできる人ならともかく、ほんの一時的に置いたつもりでも、片付ける暇がなく、机の上に山ができてゆきます。部屋自体にももう置くスペースがなくなり、片隅に置き始めると、もう収拾がつかなくなります。 多くは、いつかは使おうと置いておくもの、でも、意外と手にすることは少ないのです。さっさと整理するか、いらないものは処分すればいいのですが、資料はいつか使うもの、きっぱりと決断するのが難しいですね。 そう、もういらないと捨てたものに限って、後から必要になったりします。だから、うっかり処分できません。 でも何とかしなければ、自分の居場所すらなくなります。 部屋ならば、見た目でわかりますから、例えば人の目に触れることを考えると、整理しようなんて、重い腰を上げます。 でも、それがこころの中となると、自分にしかわからないので、積み重なってゆくままですね。いえ、自分にすらわからないことすらあります。忘れてしまうのでしょう。他の人が覗き込んだならば、それこそうず高く積まれた資料の中で、こころがどこにいるか、わからないでしょうね。 しまいこんだわけではなく、さりとて、いつでも取り出せるために置いておいた訳でもない。中途半端な状態は、迷いの元になります。 いっそ気になるものを、もう一度取り出してきて、虫干ししてみませんか? いらないものはあっさりと捨てて、気になるものはもう一度ひも解いてみる。案外、あなたがいま欲しい情報や手立てのヒントが、その中から見つかるかもしれません。 外の世界を検索するのも大切ですが、自分の世界の内容を、しっかりと把握することも重要な作業です。いままで生きてきた貴重な体験が、びっしりとつまっているあなたのこころの中。宝の持ち腐れにならないように、しっかりとさがしだしてくださいね。 さあ、何か貴重なヒントが見つかりましたか? <第0088号 2004年5月2日(日) 本日のこびん> 5月 おまえは大きな夢を いきなりこわしてすましている さまざまないのちの苦しみを糧にして あの 燃えるような新緑たちを育てている * 挿一輪 * 五月です。燃えるような新緑です。 あのすさまじいほどの勢いと彩色はどこから来るのでしょうか? 梶井基次郎が「櫻の樹の下には死体が埋まっている」と、サクラの花のただならぬ妖艶さを表現していましたが、一斉にすべてのものを飲みつくさんばかりの五月の植物の勢いにも、ただならぬ養分を吸収しているのではないかと思えるほどです。まるで生き残りをかけてのスタートダッシュのようで、少し弱気になろうものなら、逆に一気に地の中へ閉じ込められるほどの、弱肉強食の世界になります。 考えてみると、動物の勢力争いに比べて、植物のそれは、場所を自分で移動できない分、より激烈な争いを感じます。今は、人間が植物たちを征服しているような錯覚を与えますが、実は強大な植物の世界のリベンジがすでに始まっているような気がします。 なぜなら、この季節、人間すらも精神的に不安定になる原因が、新緑の勢いの中にあるような気がするからです。五月病がいつも話題に上りますが、潜在意識の奥底で、植物の勢いに対する恐怖が働きかけているのかもしれません。 さて、では、新緑の中に出れないで、家の中でじっとこもっていましょうか? それは植物に対する敗北宣言です。見ただけで引いてしまうのは得策ではありません。 ではどうすれば? あなたも新緑になればいい!このフレーズは少し怖いですね。「ゲゲゲの鬼太郎」で鬼太郎が木にされてしまったシーンを思い出します。 違います。あなたの体のなかにも、新緑になる芽があります。嫌なこと、負担になることか少し離れて、じっとあなたの体を観察してみませんか?ほらほら、何かに向かって、からだがうずき始めている。その方向に、あなたの新芽が出てゆくのです。ふさぎがちなのは、その前兆です。 外に出て、五月の太陽に当たって、植物に負けない鮮やかな芽をだしてみてください。 あなたの芽は、いったいどちらから出てきますか? |
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