2004年6月のこびん

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<第0104号 2004年6月27日(日)>

      Only

わたしにしかできないこと
あなたにしかできないこと

生きているそのあいだだけ


   * 挿一輪 *

 夏至の前後は明るい時間が長いです。
 日の出が朝の4時半頃、日の入りが夜の7時頃。夕方になるとすぐに暗くなる冬場と比べると、昼が長いので得をした気分になります。

 24時間の一日が、長短変わるわけではありませんが、一日の長さは、感じ方でずいぶん変わってきます。時々、時間が本当に均等に流れているのかと疑うことがあります。

 嫌なことをやっているといつまでも時間が進みませんし、大好きなことをやっていると、半日くらいはあっというまに過ぎてしまいます。
 休日に朝寝坊をして、遅い朝食をとるともう正午ですし、待ち合わせで相手が来ないときなど、時計が壊れているのではないかと思います。

 同じ長さの時間でも感じ方でずいぶん違います。

 そう、同じ長さの時間でも使い方でずいぶん違います。でも、24時間は決まっています。決まっているから、今日のそのなかでのスケジュールを振り当てられます。1日、1週間、1ヶ月、1年、期間が決まっているものは、目安があります。

 では、「生きている」あいだの時間は?
 これから「生きてゆく」あいだの時間は?

 平均的な寿命から考えますか。希望的な年数から考えますか。
 「あと、何年あればこれができる」そう思って生きている人というのは、意外に少ないのではないでしょうか?たとえ、あなたがそう思って生きていても、時間の保障は何もありません。

 では、もう時間がないのだから、と自暴自棄になっても、すぐに寿命が尽きるわけではありません。
 神秘に満ちた生命体でも、自分の生きている時間を、コントロールできないだけでなく、知ることすらできないのです。

 ならば、たった今やることは、自分にしかできないことをすることと、自分にはできないことを尊重することではないでしょうか。

 生きているあいだに、わたしが体験することは、わたしにしかできないこと、と、あなたにしかできないこと、なのではないでしょうか。
 生きているそのあいだだけ、それぞれができることを、しっかりとやり、他の人のできることを見守ることができれば、もっと充実した、生きた!といえる、毎日が遅れるのではないのでしょうか。

 わたしにしかできないこと、やっていますか?
 あなたにしかできないこと、そっと見守っていますか?


<第0103号 2004年6月24日(木)>

      もう少しの

ほんの少しでもいい
小さな一歩があれば
前へ出る一歩があれば
広々とした視野がもてる


   * 挿一輪 *

 一歩前へ。

 学生の頃、体育か何かの集合のときでしょうか、声をかけられたことがあります。横一列に並んでいた私が、その号令で一歩前に出たとたん、まわりが急に広がったように感じました。それまで何も感じなかったのに、急に心臓の鼓動が大きくなったように思いました。

 一歩前に出ただけで、視野が変わる、あたりまえのことですね、左右に並んでいる人が、視野から消えたのですから、その分、広く感じたわけです。でも、この一歩はとても大きかったように記憶しています。

 何かがわからない。解決策が見つからない。自信がない。そんなとき、どうしてもその場所にたたずんでしまいます。防衛本能というものでしょうか、そこにじっとしていろ、そんな言葉がどこからか聞こえてきそうです。

 神の声?実は、それぞれのこころの中の、自分を危険から遠ざけようとする声なのかもしれません。聞こえてくるのは、正常な感覚の持ち主です、決して間違ってはいません。でも、そこから立ち直るのに時間がかかると、いつまでも、待て、の姿勢になってしまいます。

 もう少し状況を見て、もう少し落ち着くまで待って、もう少し風が吹くのを待って。

 でも、いざ風が吹いたとしても、いつ吹くかわからない風のために、モチベーションを持ち続けるのは、よほど強い意志がないとできません。たぶん、人間は、いや、生き物は、本来なまけものです。特に直接生死に関わらない問題には、いたって淡白です。風が吹いても、もう少し有利な風が吹いてから、と、不精を決め込むのに違いありません。

 それなら、いっそ、いちばん不利な状態で、どうしようもない状態で、一歩前に出てみませんか。どこにも道がないと思えても、一歩前に出ることで、なあんだ、こんなに広い選択肢があるんだと気がつくかもしれません。たとえ、その確率が低くても、一歩前に出てみる価値は十分あると思います。

 道が閉ざされた、そう思ったら、次の一歩を、思い切って前に踏み出してみませんか。
 結果はわかりません。
 ただ、視界が広くなることと、一歩進んだという事実が、実はとんでもない大きなきっかけや自信を与えてくれるものです。

 一歩前へ。
 たったそれだけの号令です。

 しっかりと、あなた自身の一歩を踏み出してみませんか。


<第0102号 2004年6月20日(日)>

      きらめき

きらめくことの
たいせつさ
生きているだけではだめだ
きらめかないと


   * 挿一輪 *

 家の近くに企業の寮があります。三階建ての古い建物ですが、敷地の中にキョウチクトウの大きな木があります。一番上の階にまで迫るくらいの高さです。

 いま、真っ白な花をつけています。
 梅雨の晴れ間の太陽に照らされて、まぶしいほどに光っています。木漏れ日が光っているように見えるのですが、よく見ると白い花や、葉の一枚一枚までが光っています。木そのものの生命力が光っているように思えます。

 顔を見たとたん、明るい気分になる人がいます。
 表情や動作のはしばしに、生き生きした生命が感じられます。こちらが多少元気がなくても、すぐに明るさを取り戻してくれそうな人です。

 でも、大声で笑ったり、休む暇もなく動き回ったり、目立った行動で、人目を集めるわけではありません。本人は普通に行動していますが、行くところ行くところでまわりが活性化します。動きや、話すことに、生き生きとしたきらめきが感じられます。そう、キョウチクトウの大きな木を見ている時と同じです。

 人間でも木でも、すべてにそう感じるわけではありません。なかには、そっと避けて遠回りをしたくなるものもあります。自分の生命力まで吸われてしまいそうな、そんな人間や木では、そばに近寄りたくありません。
 何気なく立っているだけでも、疲れを忘れてしまうような、そんな存在が好きに決まっています。

 どうしたらそうなれるでしょうか。
 うらやましいと、まぶしげに見ているよりは、自分が少しでもきらめいたらいいですね。

 まず、生命の流れを意識してみましょう。木は、大地の水を吸い上げています。大きな木に耳をつけると、水の音がするといいます。同じように、人間の、あなたのなかにも、血液や、リンパ液が絶え間なく流れています。どんな時でも止まらずに流れ続けています。その流れを意識してください。

 そして、その流れを応援してあげてください。難しいことではありません。
 小さなことを、一日一つずつでもいいのです。
 誰かを助けてあげてもいいですし、自分がすぐにできそうな、小さな目標を立ててみてもいいです。
 やり始めたら時間を忘れてしまうほどの、大好きなことをしてもかまいません。 

 ただ、あまり大きな目標は欲張らないでください。
 「すぐにできる」「小さなこと」で「毎日」でも無理なく続けられること、それがきらめきのもとです。
 だって、あの大きなキョウチクトウだって、最初は小さな芽だったに違いありませんから。あのきらめきの人だって、きっとだだをこねる、普通の子どもだったに違いありませんから。

 意識しないくらい、習慣になった時に、あなたはきらめいてくるのかもしれません。
 ね、せっかく生きているのだから、きらめきましょう!


<第0101号 2004年6月17日(木)>

      水の星

田植えの頃
わたしの足もとは
一面
水の星になる


   * 挿一輪 *

 梅雨に入り、それまでレンゲや春の草でおおわれていた土の田は、耕され、水が入ります。あとは田植えを待つばかり、そんな田の真ん中を伸びる道を歩きます。
 空は梅雨の晴れ間で、抜けるような青空です。もうすぐ田植えが始まって、緑の苗が一列に並ぶことでしょう。一面の水の風景は、空の雲や、山並みを映して、また新しい表情を見せてくれるに違いありません。

 今まではあまり広さを感じなかったのに、水の入った田が空を映し、まるでまわりの景色が2倍になったような気がします。空の満ち溢れた不思議な空間に、一人取り残されている気分です。
 ただ水が入っただけで、この広さと開放感。だまし絵のようなものですが、吸い込まれそうな錯覚に陥ります。

 その広さは、心地よいような気分とともに、時には怖くなることすらあります。土の星が、水の星になっただけで、感覚まで変化します。
 ずっと昔に体験していて、忘れてしまっていたものが、ふと思い出されたような、そんななつかしさを感じます。農耕民族の原体験なのでしょうか。それとももっとさかのぼって、海に発生した、原生物の記憶かもしれません。

 どちらにしろ、きっとどこかで見ている風景なのでしょう。たとえば、赤ん坊の頃、母親におんぶされて見た風景だとか、まだ、学校にも上がらない前、幼友達とかけまわった記憶だとか。
 この風景、いつか見たことある、初めてのところで、そう思ったことってありませんか。個々の体験にもよりますが、それこそ、人類共通の原体験に由来することがあるのかもしれません。

 見渡すかぎりの田、今では少なくなっているかもしれませんが、少し郊外に出れば見ることができるかもしれません。ぜひ、そんな田の畦道に立って、なつかしくも不思議な空間に身を任せてみてください。

 広さが2倍になったなら、気持ちも2倍の、大きな器になるかもしれませんね。今まで、考え続けて、答えの出なかった問題も、案外スラリと解けるかもしれません。
 広い空間に、重なるほどいっぱいに、あなたを広げてみてはいかがですか。


<第0100号 2004年6月13日(日)>

      話

話すことだ
水たまりに
雨が
次から次へと輪を作るように
波紋のように話すことだ


   * 挿一輪 *

 話すことはすごいことです。
 直接触れ合わなくても、意思の疎通ができます。

 言葉はもっとすごいことです。
 面と向かっていなくても、意思の疎通ができます。テレパシーやサイコキネシスが超能力といわれますが、考えてみれば、言語を使ってコミュニケーションをしている私たちは、それだけでもう立派な超能力者です。
 人間が他の動物と違って、格段の進歩を遂げたのも、伝達する言語の多さとそれに伴ったコミュニケーションが発達したからだと思います。

 伝わるものは、一ヶ所では止まりません。伝わったところから、次の場所へと伝わります。水面に投げた石が作り出す波紋、どんなに小さなものでも水面全体に広がり、何か当たるところまで止まりません。
 当たったら当たったらで、そこからまた新たな波紋が生まれます。

 たとえば雨の日の水たまり、次から次へと降りてくる水滴が、たくさんの波紋を作り出します。波紋は次から次へと広がって、波紋同士で干渉し合い、また新たな波紋を作ってゆきます。
 雨の水滴の波紋はやがて消えてしまいますが、小さな話は、どんどん広がって、大きなうねりのようになってゆくことすらあります。それは、個人の力を持っては、とうてい及ばないほどの、巨大な力を作ってゆきます。

 小さなきっかけが、時によっては世界中をも動かすことになる、これはとんでもない超能力です。
 わたしたちはこんなすごい能力を、日常で何気なく使っています。会話で、絵で、音楽で、広告で、新聞で、本で、メールで、手話で、TVで・・・、数え切れないほど満ち溢れています。

 なにもできない、だれもわかってはくれない、うまくことが運ばない、小さなこころの痛みをじっとうずくまってかかえていないで、話をしてごらんなさい。生まれつき備わっている、会話という超能力を使ってみてください。

 目をつぶって、一面、鏡のような水面を思い浮かべて、その中心に、あなたの言葉を、あなたのこころを、たったひとつ落としてみてください。
 ほら、波紋が広がって、大きく大きく広がって、何かに当たって返ってきます。もしかしたら、別の波紋があなたのところにやってくるかもしれません。
 かわさないで、触れ合ってください。新しい波紋が生まれてきます。
 ね、楽しいでしょう。

 あなたは、いつでも、水面に波紋を作るように、話すことができますか。


<第0099号 2004年6月10日(木)>

      あじさい

花の色が
かわり
かわり
きょうは湿った風の色


   * 挿一輪 *
 七変化といいます。あじさいの花の色の移り変わりです。白から青紫、赤紫と、一方向に進んで戻ることはありません。
 花の色の移り変わりに無常を感じるのは、百人一首の小野小町の和歌が有名ですが、自分の容姿の衰えを嘆くまでもなく、いつまでも変わらぬものはありえません。
 それならばいっそ、変わりゆくものたちを、自分を含めて、じっと見つめて受け入れてしまおう、いや、もう一歩進んで、変わりゆくものを楽しんでしまおうと、気持ちの持ち方を変えてみたいものです。
 考えてみると、変わることは楽しいことです。いつまでも同じ景色を見ていると、どんな絶景でも飽きてしまうように、わたしたちは、どこかで変化を求めています。でも、変化は求めるからやってくるのではなく、常に起こっているのですから、注意深く観察していれば、変わらぬものなど、この世の中にはほとんどないことに気がつきます。
 問題はその変化の受け入れかたです。かたくなに拒んでいても、ただ目をつぶっているだけのことですから、自分の中は闇の世界でも、外の世界は決して止まりません。いずれ目を開けたときの変化は、いやおうなく飛び込んできます。
 目を閉じていても、開いていても、同じ時間の流れがあるのなら、しっかりと目を見開いて、わずかの変化でも肌に感じてみませんか。鋭い感受性は天性のものもあるかもしれませんが、注意深く変化に注目していれば、自ずから研ぎ澄まされてゆきます。
 あじさいの花の色も、少しずつ変わってゆくので、毎日の変化はほんのわずかです。
 でも、いかにも梅雨らしい湿った日の風に吹かれている花の色と、梅雨の晴れ間の青空の映えている花の色では違っています。
 悲しいことや嫌なことがあった日に見る花の色と、うきうきするような出会いのあった日に見る花の色もまた違います。
 そう、いちばんの変化は、実は、あなた自身のこころの中に起こっています。そして、いちばん受け入れて欲しいのは、そんなあなた自身のこころの変化です。
 じっと見つめてください。
 そこにはまさに、リアルタイムで変化するあなた自身がいます。
 移り変わり、色が変化してゆくあなた。その場面場面で、決して繰り返し体験できない美しさを、ひとつ残らず見逃さずに、生きてみませんか。


<第0098号 2004年6月6日(日)>

      くちなし

くちなしの花の 白
ぬめるような
ビロードのような
清純の仮面を脱いだ 白


   * 挿一輪 *
 白というと、清純なイメージがあります。
 汚れない、清楚な白。ウェディングドレスのイメージを思い浮かべることも多いと思います。色彩による共通の感覚は、時として先入観につながります。
 でも、たとえば、白という色をとっても、さまざまな白があります。先ほどの清楚な白、さわやかな洗剤のCMに使われそうな白、透けるような繊細な白、ペンキで塗ったようにべったりとからみつく白、そしてぬめるような艶な白。
 白は他の色に染まりやすいといいながら、逆にどの色にも浸透する底知れぬ強さがあるように感じます。
 道を歩いていて、ふと目に飛び込んだくちなしの花の白、夕刻のたそがれ時ならなおさら、体に違和感が感じられるほど、ぞくっとした感覚を送り込んできます。思わず引き寄せられるか、それとも嫌悪感から顔をそむけるか、その人の感覚や、その時々の心理状態にも左右されると思います。
 ただの白い花で、そこまで、大げさな、あなたはそう笑うかもしれません。でも、目に直接飛び込む色彩は、とても強烈な印象をうえつけます。ものごころついての最初の印象で、その色についての先入観ができてしまうことさえあるかもしれません。
 白に対するイメージがほとんど同じだとしても、その中身は細かいところで必ず違ってきます。千人いたら、千通りの白が存在することになります。まるっきり同じで、見え方さえ同じでも、並んで同じものを見ていても、同じものはないのかもしれません。
 それは、すでにその色彩があなたのものになっているからです。あなた自身の色彩で染めているからです。それがいいとか、悪いとか判断することではありません。大切なことは、あなたが見た、たとえば白が、そこに必ず存在しているということです。あなたは、あなただけの白をみることができます。実際にさまざまな白があり、それをとらえるさまざまな目があります。
 組み合わせは無限に広がり、そのどれもが実在し、否定されません。そう思えば、自分の目を信じて、違っていないかなと、おどおどすることはなくなります。
 違っていてあたりまえです。むしろ、自分自身を疑って、見えたままの姿を自分で否定してしまうほうが危険です。
 あなたの白、あなたの目で見て、あなたの気持ちで表現することができますか。


<第0097号 2004年6月3日(木) 本日のこびん>

      いちばん遠く

いちばん遠くはどこ
いちばん最初の出発点

いちばん遠くて
たどりつけないわたしのこと

   * 挿一輪 *
 あなたにとって、いちばん遠いところはどこでしょうか。
 日本の端、世界の端、もっと遠くの宇宙の果て。
 ビッグバンが始まって以来、宇宙は膨張を続けているそうです。宇宙の果てはどんどん遠くになってゆく。でも、どんなに遠い彼方であっても、その方向を向いていれば、いつかは到達できそうな気がします。
 そう、いちばん遠くは、その方向を向いていないところにあるような気がします。その場所がどんなに近くても、背中合わせになっていても、決してたどりつけない場所があります。なぜなら、その場所を見ていないからです。
 意識にないものは、見えません。目の前を横切っても、その意思がなければ、目には入りません。信じられないようなことですが、あなたにも経験があると思います。たとえば、目の前を友人が知らんふりをして通り過ぎてゆく。決して無視しているわけではなく、目が見えないわけではない、視界に入りながら、見ていないからです。
 たどりつけないからといって、いちばん遠い場所とは限りません。物事が混乱して、分からなくなった時、道に迷って途方に暮れたとき、まず、出発点に戻って考えるのが、いちばんの近道になることがあります。
 あなたは、あなた自身から出発しています。あなた自身が分からなくなったら、まずあなた自身に戻って考えるのが、いちばん確実な道です。
 いちばん遠くは、自分を見失った、忘れて省みようとしない、あなた自身のなかにあります。ほんとうはいちばん近いのに、いちばん遠くにしてしまったために、こんなに近い、あなたのなかに帰ることができません。ほんとうのあなたに戻ることができません。
 どうしてこんなに遠くに来てしまったんだろう。
 そう思ったら、あなたのなかをみつめてください。
 あなた自身を思い出してください。
 遠いから帰れないのです。こんなに、すぐそばにいたと気がつけば、すぐに本来のあなたの場所に帰れます。
 あなたのなかのあなた。いちばん身近で、実はいちばん遠いところになってしまう、かもしれません。
 触れるほどそばにいるのです。
 だから、あなたは、いつもいちばんそばに感じていてください、あなた自身を。



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