2004年9月のこびん

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<第0131号 2004年9月30日(木)>

      中秋

満月
ぽったりと赤銅色の顔が
昇るにつれ
白銅色の鏡になる

あなたは今宵 神になり
ささげ物を見おろして
いつもの軌道を描いてゆく

敷き詰められた虫たちの
祈りに似た声のじゅうたん
地球も変わらず
いのちをのせて軌道を描く

哀しみがすぎて
涙のかわりに笑みが浮かぶピエロ

月よ
涙をこぼさずに
目を見開いたまま
今宵 一夜をまわれ


   * 挿一輪 *

 28日は中秋でした。
 中秋の名月といいますが、満月と中秋が必ずしも一致するとは限りません。その貴重な日に輝く月をじっと見ていました。

 細い虫の触角のような糸の月から、三日月、半月と、少しずつ丸みを帯びて、15日目の満月。月を見ていると、満ちては欠け、また満ちてくる、その繰り返しが、不思議と心地よいリズムになります。
 古来より、このリズムと生命のリズムには、神秘的な親密度があります。海の潮の干満に大きな影響を与えるからでしょうか。

 満月の、触ると手が切れそうなくっきりとした輪郭が、古代に神が宿るとされた鏡の面を連想させます。
 ふだん何気なく見ている月も、こうして中秋ともなると、まるで違って見えます。

 考えてみれば、神秘的な天体の運行なのですが、見慣れてしまえば、気にも留めなくなります。小さな子どもの頃、飽きずにずっと見ていた月が、大人になると、中秋といわれた時にだけ、注目するだけになってしまいます。

 見慣れるということ、そばに何気なく存在すること、あなたにとっては、もう、めずらしい景色ではないのかもしれません。
 今さら、満月といわれても、ふ〜ん、そうか、で、もっと気になる仕事や付き合いのことに気をとられてしまい、月のことなど頭の隅に追いやってしまいます。

 でも、天体の精密な運行は決して狂うことはありませんし、身近のことに比べると、比較にならないほど大きなスケールに違いありません。

 月や太陽、水や空気と共に、あたりまえすぎて忘れてしまっているもの。
 あなたの中のいのちのサイクルも同じです。

 意識しなくても決して止まることなく回っている、不思議なものたち。
 支えられているあなたは、時にはそんな包まれたまわりの世界を、じっと見つめてみたらいかがですか。

 よく見回すことによって、空気のようになっているものに、気がつきませんか。
 あなたのそばで、じっとあなたを見守っている人たち、ものたち、そして、あなた自身のこころとからだ。

 様々な形に変化するものたちに囲まれて、あなたは、ここまで生きて、また、これからも生きつづけてゆく。

 月をじっと見ていると、清々しい、それでいてあたたかな心持になるのは、あなたを守っているたくさんのまなざしそのものに、似ているのかもしれません。

 決して忘れないでください。
 支えられ、守られて、あなたは生きているということを。


<第0130号 2004年9月26日(日)>

      気がつく

テレビのドラマで見ることではない
人の話で感動することではない
しっかりと
あなた自身がとらえることだ

あなたの目で見て
あなたの耳で聞いて
からだのなかにゆっくりと
深呼吸のように流し込み

小さな輪ゴムをはじくように
ピシッと
あなた自身に気がつくことだ


   * 挿一輪 *

 十人十色といいます。千差万別ともいいます。
 生きている人の数だけ、違った生き方があります。

 どこか似かよっている境遇の人に出会うことがあります。
 一方で、あんな生き方ができたらなという願望があります。
 テレビドラマや映画、身近な人との話題のなかにまで、疑似体験や共感がわきます。

 一緒に泣くのもいいでしょう。
 怒るのもいいでしょう。
 いや違う、と反論するのもいいでしょう。

 でもそれは、あくまでもバーチャル体験やシュミレーションであって、本来のあなたではありません。
 ○○ごっこではないですけれど、時には他の何かになりきることによって、ストレスが解消されたり、癒されたりするかもしれません。でも、それは一時の休憩です。

 そればかりか、のめりこむと後退にもなりかねません。
 作り出した自分の姿にみとれてしまい、ふとかいまみる自分の本当の姿が、逆に、取るに足らないものに見えてしまったりします。

 まず目を閉じましょう。
 目の前の虚構の世界を一度消してください。

 こころを落ち着かせたら、ゆっくり目を開けます。
 まわりを見渡して、あなたの目で見て、あなたの耳で聞いてください。
 先入観を捨てて、あなたがいちばん心地よいと思うものを、取り入れるように、ゆっくりと大きく深呼吸をしてください。

 そこには作られた世界はありません。
 あなた自身と、あなたが自分で感じたまわりの世界があるだけです。

 繰り返すと、きっと気がつくはずです。
 それは世界中でたったひとつの、あなただけの世界だということを。
 あなたを生きているのは、まさに、あなた自身だけだということを。

 そして、もっとすごいことに気がつくはずです。
 みんなもそうなのだと。
 虚構の世界のなかではなく、隣にたまたま居合わせた人もそうなのだと。

 ピシッと輪ゴムをはじくように気がつきます。
 痛いくらいに気がつきます。
 その感触を忘れないでください。

 もう間違いません。
 あなたの世界と、虚構の世界とを、はっきりと区別できます。

 そこで初めてあなたの夢を追いかけてください。
 あなたの世界で追いかけてください。
 必ず成功します。
 だって、こんなにしっかりあなたの目で見て耳で聞いて感じて確かめたのですから。

 さあ、迷わずに。
 あなたの世界で、あなたのゆめをかなえるのは、あなたのほかにはだれもいないのですから。


<第0129号 2004年9月23日(木)>

      ひとつの

ひとつのことを
追ってゆくと
細い道につながってゆく

ひとつのことを
追ってゆくと
ある日ぽっかり空に出る

どこまでも広い空で
たくさんの
追ってきた人と出会えるはずだ

ひとつのことを
追ってゆくと
いつかはみんなの空になれる


   * 挿一輪 *

 だれもが得意なものをもっています。

 絵を描くのが好きだったり、歌を歌うのが好きだったり、お話を作るのが好きだったり。
 走るのが好きだったり、泳ぐのが好きだったり、球を投げるのが好きだったり。
 笑わせるのが好きだったり、マジックが好きだったり、お芝居するのが好きだったり。

 好きなことは得意なことです。
 どんなに小さなことでも、役に立たないと思われていることでも、下手の横好きといわれることでも。

 あなたはだれにも止められないのなら、お腹がすいても、外が真っ暗になろうとも、ひたすら続けていられることがありますか。

 実際の生活の中では、仕事があり、家事があり、様々な雑事があり、そのつど、止まってしまいます。
 でも、もし、だれにも声をかけられず、自由に行動できる時間があったなら、あなたは何をしていますか。

 専門バカという言葉があります。
 ひとつの分野をひたすら追い求め、だれよりもそのことに詳しい人がいます。一見、共通点がないように思えても、語る言葉や、表現に、不思議な説得力を感じることがあります。

 ひとつの道をひたすら続ければ、だれもが認める真理にたどりつけるのかもしれません。

 細い道をどこまでも歩み続け、ある日、ぽっかりと広い空間に飛び出す。そこには、たくさんの同じような仲間がいるはずです。
 あなたもそこで、堂々とあなたの大好きなことを語って、対等の仲間になれるはずです。上下関係、優劣関係はありません。だって、だれもが、大好きなことを、ここまでやってきただけなんですから。

 さあ、あなたは、そんな仲間に入れますか。
 欲張りません、たったひとつでかまいません。
 ひとつのことを、追ってください。
 どこまでも、いつまでも。

 さあ、そんな、あなたの大好きなこと、何ですか。


<第0128号 2004年9月19日(日)>

      彼岸花

この空を待っていた
じっと土の中で待っていた

まわりの草や花が
どんなに伸びようとも
雨や日差しに
どんなに誘われようとも
自分の時を待っていた

生き残りをかけての戦いが終わり
だれもが次代の眠りに入ろうとする時
待ち続けていた力が
一本の茎を広い空に押し出した

ここなら自分の花を開ける
ここなら思いがかなえられる

彼岸花は念願の夢を
いま真紅の衣装に開いている


   * 挿一輪 *

 9月も彼岸の頃。夏草の勢いも弱まってきます。
 近くの川の土手では、繁りっぱなしの草が、きれいに刈り取られていました。見通しの良くなった斜面に、真っ赤な花の固まりが目を引きます。

 彼岸花です。
 とても鮮やかな花なのですが、どうも好かれないようです。
 すっと伸びた茎に、けばけばしいほどの赤い冠。
 葉がないのも異様に見えます。
 墓地に多く見られたことや、彼岸の頃に咲くためか、「死人花」などと怖い別名もついています。

 でも、彼岸花は、とても賢い生き方をしています。
 秋になって、他の草や花などの植物が勢いを衰えさせた頃に、突然茎を伸ばします。川の土手などで、草刈をした後などに、見る見る間に茎を伸ばして、花をつけます。
 まるで、自分の頭の上の空間が、広く何もなくなったのを、地中からじっと見ているようです。競合を避け、自分がいちばん良い形で地上に出るのを待っているのです。

 タイミングがいいとか、運がいいとか言われる人がいます。
 機を見てすっと思いをかなえてしまう。ちゃっかりしているとか、目端の利いたやつとか、ちょっと揶揄して言われることもあります。

 ただ、偶然だとか、機転が利くとか、器用だとか、外から見るとそう見えることが、実は、ふだんからの努力や、心構えの仕方が、大きな差になってゆくことが多いのです。
 生き物の世界では、常に競争がつきものです。まともに勝負をしたら、強いものが勝ち、弱いものは次の世代を残せません。

 でも、周りを見渡しても、強いものだけが勝ち残っているわけではありません。そこには、それぞれの工夫があるからです。

 地上で勝てなかったら、水の中に行く、空中に行く。
 日中の明るいときに勝てなかったら、夜に適合する。
 水と光に不足のない春から夏の、競合する環境を、少しだけずらして、秋口にしてみる。

 生き残るための知恵。
 彼岸花は見事にその知恵を使っています。

 競争社会といわれる人間社会も、常に、比較、勝ち負け、がついて回ります。
 同じ土俵では、つまり、同じ基準では、力の強いものには勝てません。

 でも、少しタイミングをずらすことや、工夫をすることで、どうにでもすることができます。
 そのためには、自分の得意なものを良く知り、自分の活かせるタイミングをつかんでおくことです。

 小さな力を、最大限に発揮する。
 彼岸花のことを知ってから、この花を見る気持ちが違ってきました。

 あなたも、しっかりと、自分を見つめ、あなたを、少しでも、より活かすポイントを見つけてください。
 広々とした秋の空に、真紅の彼岸花。
 彼岸花の賢さを思うと、とても気持ちよく見えませんか?


<第0127号 2004年9月16日(木)>

      カゲロウ

カゲロウの
脱皮したあとの
透明なぬけがら

青い空がのぞける
すきとおったぬけがら

いのちが出て行ったという
やすらぎの薄い輪郭

ここにはもう哀しみのもとがない
ここにはもう追われるものがない


   * 挿一輪 *

 窓に、カゲロウのぬけがらが、張り付いていました。細く長いしっぽの先まですきとおったぬけがらです。
 ぬけがらを通して、青空が見えます。秋の、音のない空です。

 ここにはもう、入っていたかげろうはいません。飛び出して、空に舞い上がって、短い飛翔を終えたに違いありません。
 たぶん、かげろうのいのちはありません。残っているのは、つい先ほどまで、そこにいたという、存在の証の輪郭だけです。

 人間は脱皮しません。でも、本当は、見えない脱皮を繰り返しているように思います。

 今までどうしても分からなかったことが、ふと理解できたとき。
 今までどうしても許せなかったことが、ふと許せたとき。
 今までどうしても伝えられなかったことが、ふと伝わったとき。

 足元を見てみると、透明なぬけがらが一枚。

 喜びがあり、悲しみがあり、泣き笑いがあり。

 足元を見てみると、また一枚透明なぬけがらが重なります。

 一枚脱いでスッキリする人や、十二単(じゅうにひとえ)のようにまだまだ、脱皮を繰り返す必要がある人や、ぬけがらがひっかかって、途中で途方に暮れている人や。

 でも、どんな人でも、脱いだぬけがらは透明です。
 透かしたら青空が見えます。
 そこにはカゲロウとは異なり、哀しみやしがらみが、形もなく、音もなく、詰まっているのかもしれません。

 そして、本体は、次に向けて、生きています。
 途中でまた、新しい衣を身に着けるかもしれません。
 脱皮をしばらく忘れてしまうかもしれません。

 足元には、ぬけがらの山。
 それを、思い出と呼んだり、過去と呼んだり、あの頃と呼んだり。
 まったく、かげろうのように、ストレートにはいきません。

 でも、私たちは生きています。かげろうよりも長く、そして、力強く。

 何よりも、自分以外の、他のだれからも見られないぬけがらを、じっと見つめることができます。
 そこには、確かに生きていたという、自分だけの証があります。
 恥ずかしがることはありません。
 ぬけがらの数だけ、新しい自分を見つけているという証です。

 続けて、どんどん続けて、自分の夢の形に近づくように、脱皮を続けてください。


<第0126号 2004年9月12日(日)>

      後ろ歩き

後ずさりとは違う
逃げているのとは違う
自分の意思での後ろ歩き

だからこんなに速いんだ
だからこんなに愉快なんだ

やってみれば再発見
前向き歩きの楽しさが


   * 挿一輪 *

 朝、バス停に行こうと歩いていると、向かうから人が来ます。ラフな格好だったので、散歩かなと思いました。
 でも、不思議です。距離が近くなりません。同じ方向に歩いている?
 そんな、顔が正面に見えるのに。

 よく見ると、え、そう、後ろ向きに歩いています。後ろ歩き健康法。
 ぎこちなさがないところを見ると、もう歩きなれているという感じです。おかげで、いっぺんに目が覚めました。

 わたしは、ふだん、前を向いて歩いています。あなただってそうですよね。
 たまに、よそ見をしたり、本を読みながら歩いたり、友人と話しながら歩いたり、今は、そう、携帯で話しながら歩いたり。

 後ろを見て歩いたときは、どんな見え方がするのでしょうか。
 やってみるのが一番ですが、なれないと後ろばかり(つまり通常の前、ややこしい)気になって、それどころではありません。

 旅行で電車に乗ったとき、ボックス席(対面に座る4人がけ)に座ったときのことを思い出してください。進行方向の逆に座って、後方に流れてゆく景色を見ている感覚です。

 前向きに座っていると、これからやってくる景色が見られます。
 未来から、今まで。
 今は一瞬に通り過ぎて、「あれ、何?」と思ったら、あわてて振り返らないと、飛んでいってしまいます。

 後ろ向きだと、通り過ぎた景色が広がります。
 今から、過去まで。
 景色は突然に視野に飛び込んできますが、そのあとで、確認することができます。

 どちらがいいとか、悪いとかではなく、座る方向によって、まるで違う見方ができます。後ろ歩きのときも、きっとそんな視野の違いが感じられるのでしょう。

 そして、同じように、生き方にも視野の違いが感じられるはずです。みんな前を向いて生きています。

 前の方向に進んでゆくのに、後ろばかり気にしている人がいます。前が気にならないのではありません。前を、これからのことを、意識すればするほど、後ろが、今までの自分が気になって仕方ないのです。

 それならば、いっそ、後ろ歩きではないですが、後ろにしっかりと顔を向けて、今までの自分をはっきりと確認したらどうでしょう。広がる視野の中の、自分の歩いてきた道を見てみたらどうでしょう。
 ほら、こんなに広い世界を、ずっと歩いてきた自分が見えてきませんか。

 確認したら、大きくうなずいて、くるりと前を向いてみてください。
 前も、同じ広い世界です。
 前を向いて歩くということが、とても気持ちよく感じてきませんか。

 もし、また、後ろを振り向きたくなったら、後ろ歩きをしてみてくだい。何度でもかまいません。でも、最後には、しっかりと前を向いてみてくださいね。

 あなたの道では、あなたしか、前に進めないのですから。


<第0125号 2004年9月9日(木)>

      黄色い風船

黄色い風船ひとつ
風に飛ばされて

もう空気が抜けかけて
道をころがるばかり

どこかにそっと結び付けようか
通り過ぎてから戻ってきたが

足もとをみたら
黄色いゴムのかけら

黄色い風船
風に飛ばされて割れた


   * 挿一輪 *

 配られていた風船でしょうか、黄色い風船が落ちていました。
 強い風にあおられて、道をころがっていきます。ちょっと気になったのですが、急ぎの用事を優先しました。

 帰りにまわりをキョロキョロと探したのですが、ありません。だれかが、持って行ったのかなと思って、ふと道路をみたら、割れた後の黄色いゴムのかたまりが落ちていました。
 何かに当たって割れたのか、車につぶされたのか。
 風船が欲しかったのではありませんが、割れてしまったのを見ていると、どこか近くに結んであげれば良かったかな、と残念でした。

 何かをしようと思い、すぐにその考えどおりに行動するのは、意外とできません。
 一瞬ためらって、それでも行動に移せればよいほうで、たいていは通り過ぎてから、やはりやっておけばよかったな、などと後悔します。

 人には様々なタイプがありますが、行動に関しては、すぐに行動を起こすタイプと、考えてから行動を起こすタイプに分かれるように思います。
 瞬時に動く人は、行動は早いですが、とんでもない思い違いや失敗をする危険が高いですし、考えるタイプの人は、失敗は少なくても、機会を逃すことや、先を越されることが多いようです。

 それぞれに良い点、悪い点がありますが、瞬時に行動を起こすほうがメリットが多いようです。風船が割れてしまったら、元に戻すことが難しいように、起こってしまってからでは、対応が限られてしまうからです。

 考えることは大切です。でも、本当に行動するための考えというのは、どのくらいあるのでしょうか。
 めんどうだ、とか、やりたくない、とか、行動しないための理由に使っていませんか。
 その違いは、考えた後に、考えた成果として、別の行動を起こしているかどうかで分かります。

 結局、何もしていない、それは、やはり、理由付けにしているとしか思えません。

 ほら、風で、風船が飛ばされてきました。あなたは、またじっと考えますか、それとも、すぐにひろいますか。

 では、もしも、それがもっと大切な何かなら、あなたは、今、どうしますか。行動しますか、考えますか、行動しない理由を探しますか。


<第0124号 2004年9月5日(日)>

      錯覚

同じ長さの線
縦にしたときと
横にしたときと
縦のほうが長く見える
目の錯覚

生きている毎日
あなたの持っていないものと
あなたの持っているものと
ないもののほうがとても大きく見える
こころの錯覚

錯覚は
パズルだけで楽しむのがいい


   * 挿一輪 *

 人間の目は錯覚をすぐ起こします。
 例えば、同じ長さの線。>──< と <──> では、直線の長さが違って見えること。
 同じように、─ と │ を ┴ の形にして比べると、縦の線の方が長く見えること。
 目の錯覚を使ったパズルによく出てきます。

 日常に起きる錯覚は、見えるものだけではありません。
 こころの錯覚もよく起きます。自分と相手を比べた時に、自分の持っていないものの方が、良いものに見えます。たとえば、自分にはない特技や、収入や、環境など。

 でも、その時には、逆に自分にあって、相手にないものは、頭の隅に追いやられて気がつきません。「いいなあ」と思った瞬間、まるで自分だけが持っていなかったり、自分だけが劣っていたりするように見えてきます。

 特に、相手がその部分を自慢して、いかにも持っていないのが非常識のような態度に出ると、なおさら落ち込んでしまうことがあります。
 それは錯覚です。
 線の長さが、置き方や、前後につける物によって、異なって見えるのと同じ錯覚です。

 錯覚は実験してみると、すぐに間違いに気がつきます。
 線の長さの例を見てみれば、実際に重ねあわせば、同じだとわかります。
 例えば、自分の持っていないもので、相手の持っているものと、自分の持っているもので、相手の持っていないものを、ひとつひとつ書き出してみたらどうでしょう。
 意外と数は違わないことに気がつくはずです。

 その時に注意したいのは、物事には二つの側面があるということを忘れないことです。
 何でも迅速に行動することは、性急にことをする意味にも取れますし、逆に、行動が遅い人は、慎重な面があるともいえるでしょう。

 一つのことに二つの解釈の仕方があるということは、考え方によってはどちらにもとれることです。
 良いか悪いかはその人の主観になります。
 対面したときに、自分にとって、その良い面を強調した人の方が、いかにも優れているふうに優位に立てます。

 ね、錯覚以外の何者でもありません。
 常に、自分も相手も、持っているものと、持っていないものがある、という視点から見れたら、何も悩むことはありません。

 錯覚は、パズルで出されると、後で、なあんだ、と笑ってしまいますね。
 こころの錯覚も笑い飛ばして、自分を必要以上に小さくしないでください。

 そう、いのちの大きさは、みんな同じなんですから。


<第0123号 2004年9月2日(木)>

      求めるもの

新幹線の窓の光が過ぎてゆく
すぎさった夏休みの
花火の思い出のように過ぎてゆく

窓の光は
真っ暗な空間に
まっすぐに吸い込まれてゆく
でもその先に待っているのは
明るく光に満ちたホーム

寂しかった窓の光は
ほっとしながら
まぶしい光のふところに
すべりこんでゆくことだろう

旅の思い出を
いち早く聞いて欲しい子どものように


   * 挿一輪 *

 夜、真っ暗な空間を、一列の窓の光が通り過ぎてゆきます。
 新幹線です。
 突然暗闇の彼方から現れて、また暗闇の中へ吸い込まれてゆきます。
 ここからは見えませんが、次に止まる駅のホームでは、明るい光が出迎えてくれることでしょう。暗闇の中で孤独だった光は、きっとほっとするに違いありません。

 常日頃の私たちも同じかもしれません。
 風のように駆け抜けてゆく姿は、一見かっこいいものに見えますが、こころの中では、いいしれぬ不安と戦っているのかもしれません。

 いつもだれかがそばにいるわけではありません。それよりも一人でいるほうが多いのです。止まってしまうわけにはいかない、次の駅までひたすらたどりつかなければならない、そんなときだってあります。

 でも、自分の思っている夢、持っている信念、それを捨ててしまったら、ただ暗い輸送貨物になってしまいます。小さくても光を放っていれば、つまり、自分の生き方をもっていれば、必ず、より大きな光のホームにたどりつけます。

 そこで、真っ暗に、ただ照らされているよりは、せいいっぱい自分の光を放っていたほうが、仲間が歓迎してくれるはずです。通り過ぎてきた時間の話をして、大きな夢の仲間に入れてもらいたいですね。

 明るい駅のホームは、到着点であり、出発点でもあります。より大きなエネルギーをもらって、さあ、次の駅まで、光り輝いて走りましょう。



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