2004年10月のこびん

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<第0140号 2004年10月31日(日)>

      秋の雨

雨の向こう側に
窓が見えた

鳥が
たましいを運ぶと聞いたことを
ふと
思い出したときだ

窓が開いているのならば
呼び寄せるのはだれだろうか

雨の向こう側に
窓がおぼろげに閉じているうちに
今日の家に帰ろう


   * 挿一輪 *

 秋の雨の日は、視界が悪くなります。夕方には急に薄暗くなり、足元がおぼつかなくなります。

 通いなれた道ならまだしも、初めての路地を歩くときなど、いいしれぬ不安を感じます。よせばいいのに、こちらの方角に行けば近道に違いない、などと、わざわざ知らない道を行ったりして迷います。不思議なもので、少し暗くなりはじめただけで、方向感覚があやふやになってきます。

 知らない路地に迷い込んで、目の前に人が住んでいないと思えるほど、崩れかけた古家の庭に足を踏み入れます。雨は強くなり、足元のぬかるみに気を取られて、ふと見上げると、そこには窓が・・・。だれかが呼び寄せるような気がして、背中に寒気が走ります。

 秋の冷たい雨は、少しいじわるです。
 春の雨が、やわらかく暖かいのに比べると不思議です。これから向かう季節に対しての、心構えが出てしまうのでしょうか。雨の温度は同じでも、感じる人の温度が違うのかもしれません。

 明日から少しずつ寒くなってゆくのと、明日から明るく勢いがついてゆくのと。
 腐らせて凍ってゆくための雨と、芽を出し伸びてゆくための雨と。

 季節のサイクルは決まっていて変えることはできません。でも、明日という日を選べることができるのなら、あなたは、冷たい冬を選びますか、熱い夏を選びますか。

 生きてゆくうちには、四季と同じように高低のサイクルがあるかもしれません。
 何をやってもうまくゆく春から夏、どうしても守りがちになる秋から冬。結局は、どちらも必要ですが、無理して冬ばかり選ぶこともありません。

 たましいには季節はありません。同じようにいのちにも決まった季節はないはずです。
 決めるのは、今日のあなた。

 明日がもし雪がちらついてきそうになるのなら、早めに家に帰って、今日中にあなたを暖めてください。
 熱いお風呂に入ってみる、本を読んでみる、お気に入りの服を着てみる、音楽を聴いてみる、大好きなだれかにメールしてみる、鍋焼きうどんを食べてみる、ほら、春から少しずつ夏っぽくなってきませんか。

 季節が秋に向かおうと、こころのなかは、いつもぽかぽかと暖めていたいですね。暖房を入れなくても、体の中から暖めれば、いつでも今日が楽しめますから。

 あなたを暖める方法、見つけておいてくださいね。


<第0139号 2004年10月28日(木)>

      バースデイ

バースデイ
生まれた日
いくつになっても

祝福は
あなたがあなたに

だれも知らない
最高の贈り物を

一年に一度だけ
今日という日に


   * 挿一輪 *

 バースデイ。誕生日。だれもが一年に一度出会う記念日です。

 誕生日はどう過ごしますか。
 家族がお祝いしてくれますか。友だちみんなでパーティーを開きますか。大切な人と二人で会いますか。誕生日の贈り物をもらいますか。一人で静かに祝いますか。そっと電話をしますか。ノートに何かを書きますか。生まれてから、今まで生きてきた自分に乾杯しますか。

 変に期待をしていませんか。誕生日を忘れられたから、プレゼントがないから、ついていないことがあったから、最悪の誕生日だなんて思っていませんか。

 あなたが生まれてから今まで、どんな時でも生きてきたのを、一番良く分かっているのはだれですか。
 辛いことがあっても、悲しいことがあっても、飛び上がるほどうれしいことがあっても、だれにも言えない秘密があっても、全部ひっくるめて、分かっているのはだれですか。

 あなたにとって最高の贈り物は、そんな人だからこそ選んでくれるのではないですか。あなたのことをだれよりも知っている人、それはあなた自身以外にはありません。

 そう、最高の贈り物は、あなたがあなたに贈ってあげてください。

 今まで生きてきて、それがもしも大げさというのなら、一つ前の誕生日から今日の誕生日まで、生きてきたごほうびをあげてください。
 高価なものである必要はありません。ささやかな、でも、夢のあるものがステキです。物でなくても、小さな目標や希望でもかまいません。

 例えば、これから一年、毎日大好きなことをするために、1時間ずつ時間をあげるよ、とか、ごほうびに、会社や学校をさぼって、一日遊んでもいいよ、とか、新しい服を買うときに、予算をもう少し上げてもいいよ、とか、おこがましいけれど、あこがれのコンテストに応募してもいいよとか。
 ふだんなら、無理だよ、とか、まずいよ、とか、笑って尻込みするようなことを、あなた自身に許してあげることは、最高の贈り物にはなりませんか。

 自分に贈るプレゼントならば、だれよりもあなた自身が喜ぶ贈り物を選ぶことができるはずです。

 さあ、ハッピーバースデー!
 こころから、あなたにおめでとう。
 こころから、わたしにおめでとう。
 本当にこの一年間ご苦労様でした。

 あなたのバースデイプレゼントはいったい何がいいですか、思いついたらあなた自身にプレゼントしてあげてください。

 今まで生きてきた、今生きている、これからも生きてゆく、生まれてきたあなた自身に。


<第0138号 2004年10月24日(日)>

      せいたかあわだちそう

どんなに嫌われても
生える

空き地に
道端に
どこにでも増える

雨上がりの夕方
夕陽をあびた花は
黄金色

銀色のススキの草原を走る
輝くキリン


   * 挿一輪 *

 別名キリン草。
 河原、公園、ビルの跡地、駐車場、道端や庭のすみ、ほんのわずかなスペースがあれば、どこでも見かけます。元々は外来種。繁殖力はとても強く、増え始めると、とどまるところを知りません。ブタクサと共に、秋のアレルギーの原因でも有名です。

 名前が何となくほのぼのとした響きがありますが、時には、人間の背丈を越えるほど成長し、遠くからでも目立つ黄色い花を咲かせます。あまり好かれないばかりか、嫌われることが多い草です。あなたも、身近で見たことがあると思います。

 秋を代表するススキも、繁殖力の強い草ですが、こちらのほうは、古来からお月見の時に飾られたり、生け花に添えられたり、どちらかというと好かれています。逆光に輝くススキの穂は絵にもなり、写真の被写体にもなります。

 そんな銀色に輝くススキの群落に、せいたかあわだちそうが、黄色い花をいっぱいにつけていました。ススキの穂と同じように、逆光に輝き、こちらは金色の縁取りが輝いて、風に吹かれると、草原を駆けるキリンのように見えます。じっと見ていると、今まであまり良い印象をもっていなかったせいたかあわだちそうに、少し親しみを感じてきました。

 先入観にとらわれずに見てみると、意外に美しい花です。
 知識や風評で判断せずに、自分で感じたその場の感覚を信じることが、いちばん正確な情報なのかもしれません。

 何かが嫌いとか苦手とか、一度判断してしまうと、食わず嫌いではありませんが、その考えをくつがえすのは難しいものです。苦手意識があるものでも、もう一度見直してみると、意外な一面が見えてくるかもしれません。

 あなたも思い込みを白紙に戻して、目の前のものを素直に受け入れてみてください。今まで分からなかった、新鮮な出会いが見つかるといいですね。


<第0137号 2004年10月21日(木)>

      伝えたいこと

ほんとうに伝えたいこと
それはわたし自身
わたしが生きていること

ほんとうに伝えたいひと
それはわたし自身
わたしのなかの
もう一人のわたし


   * 挿一輪 *

 過ぎたことがずっと気になります。
 分かれ道のこと。失敗のこと。悔やむこと。
 あそこで、もう一つの道に曲がれば良かった・・・。
 どうして間違えてしまったのだろう・・・。
 なぜ、あそこで、行動しなかったのだろう・・・。
 後ろばかりが気になって、前を向くことができません。そればかりか、今現在のこころもおろそかになり、ただ流されるばかり。

 先のことがやたらに気になります。
 分かれ道のこと。失敗のこと。もしものこと。
 ずっと向こうに見える分かれ道は、右に進む、左に進む、それともじっと考える・・・。
 間違えたらどうしよう、うまくいかなかったらどうしよう・・・。
 もしも、大変な事故がおきたら、その先で最悪のできごとが・・・。
 先のことをどんどん頭の中で作り上げ、大きな心配をしなくてもいいのに背負い込みます。

 どちらも足元をおろそかにしています。私のことを考えているつもりで、そこにいる私は上の空です。
 昨日の私はとっくにいませんし、明日の私にはまだ出会っていません。ここにいるのは「今日、ただ今」の私だけです。

 いちばん大切なことは、常に今の私に注目することです。今の私のこころに、今の私の行動に、全力を尽くすことです。
 空っぽになって、上の空で危なっかしく生きている私に、「もっと大切なものがあるでしょう」と、私のなかのもう一人の私が忠告しています。

 他人は、変だなと思っても、余程のことがないと忠告してはくれません。まして、表に出ないこころの変化には、気がつきもしません。

 じっと見つめて、いつも心配しているのは、私のなかのもう一人の私です。
 後ろや前ばかり気にしていないで、今の私を見つめてください。寄り添うもう一人の私の伝言にじっと耳をかたむけてください。

 何といっても、私のことをいちばんよく知っているのは、私自身なのですから。


<第0136号 2004年10月17日(日)>

      ブランコ

あなたは振り子
いつも大きく振れている

澄んだ秋の空
さえぎるものはなにもない

あなたは決して止まらない
もっともっと
大きく振ろうとしている

太陽に向かってゆくときも
太陽から離れてゆくときも


   * 挿一輪 *

 初めての町を歩いていると、小さな公園をみつけることがあります。街中のビルに挟まれたような公園や、住宅地のまんなかにある隣の庭に続くような公園。

 狭い砂場と、ペンキのはがれた動物の形の乗り物と、二つ並んだブランコの板。ブランコの下には窪みができていて、雨上がりには小さな水たまりが空を映しています。

 たいてい、遊んでいる子はいないので、その空間だけ驚くほど静かです。

 ブランコに座ってみると、子どもの頃を思い出し、こいでみたくなります。
 最初は遠慮がちでも、ふり幅はだんだん大きくなり、体も高く上がります。目の位置が高くなるにつれて、今まで見えなかった景色が見えてきます。一度に高く上がれなくても、こぐたびに、勢いをつけるたびに、体は高く持ち上げられてゆきます。

 しばらく遊んだ後に、ふと公園を出るときに振り返ると、何もなかったように、ブランコは止まっています。

 ブランコは振り子です。止まっていた振り子に力を加えることによって、前に振れ、反動で後ろに振れます。力を強く加えることでふり幅は大きくなってゆきます。

 毎日生活をしていると、様々なことがおこります。
 とても楽しいことがあったかと思うと、思わず涙をこぼすような辛い目にあったり。
 ステキな人と出会ったり、嫌なやつに捕まってしまったり。
 うまくいったり、失敗ばかりしたり。
 自分がとても好きになったり、どっかに消えちまえと自己嫌悪に陥ったり。
 行ったり来たり、まるで大きな振り子のように、あなたのこころは揺れています。

 でも、その振り子は誰が揺らしているのでしょう。
 たったひとりでブランコに乗って、何もしなければブランコは止まったままです。あなたがこがなければ動きません。でも、あなたがこげば、その力の分だけふり幅は大きくなります。

 ブランコが振れて、戻ってきたからといって、誰かのせいにする人はいないですね。

 毎日の感情の振り子も、あなたが振っています。
 それが分かれば、ふり幅はあなたがコントロールできます。間違っても誰かが無理やり振っているなんて言わないでください。

 でも、感情の振り子は決していけないわけではありません。上手に使うことによって、いままで見たことのない、新しい景色を発見することもできます。

 あなたに合った振り子の幅を維持しながら、少し大きめの、少し高めの、「振り」に挑戦してみてください。

 怖いから、うまくコントロールできないからと、座っているだけならば、ブランコも上手にならないばかりか、新しい発見も見逃してしまいますから。


<第0135号 2004年10月14日(木)>

      坂道

坂道をおりてゆく
萩の花に
いちもんじせせりの舞う坂をおりてゆく

この道をだれかに教えよう
この道にだれかを連れてこよう

ささやかな
秋の陽だまりのひととき

ずっと
ずっと
あたためつづけてきたから
わたしはこうして生きている


   * 挿一輪 *

 なかなか台風一過とはいきません。秋雨が続いて、澄み切った空が恋しくなります。

 ふとした晴れ間に、近くを歩いてみました。
 雨に打たれて乱れた萩の花に、小さな蝶、いちもんじせせりがせわしなく舞っています。決して人目を引く蝶ではなく、地味で見過ごしてしまいそうですが、よく見ると、とどまることなく花から花へと、移り飛んでいます。

 小さな体で飛び回るエネルギーは、人間に比べたら計り知れないものに違いありません。熱いいのちが入っているからこそ、できるものです。

 あなたにも同じいのちが入っています。生まれてからいままでずっと、あなたのいのちはあなたを温め続けています。
 うれしくて思わず笑みがこぼれる時でも、悲しくて泣いている時でも、悔しくてやりきれない時でも、何も手につかずぼーっとしている時でも。

 どんな時でも、いのちが、あたたかな血液を送り出しているからこそ、あなたは生きています。

 坂道の陽だまりは、本当にささやかな場面です。知らなくても、仕事には支障はないし、生活に問題が生じるわけではありません。
 でもこうして、小さな花が咲き、蜜を求めて小さな蝶が舞い、それをじっと見つめている自分を感じるとき、この場面を誰かに教えよう、この場面を一緒に誰かと見ていよう、そう強く思います。

 ひたすら生きているものが、同じようにひたすら生きているものに出会った時、どんなささやかなものでも、知らん振りして通り過ぎることができるでしょうか。
 まして、暖め続けたいのちに感謝することもしないで、自らのいのちを冷たくすることなどできるでしょうか。

 一生懸命に頑張って、といっているのではありません。自然にしているだけで、あなたのいのちはあなたを暖め続けているのです。

 ならば、せめて、邪魔をしないで、ならば、せめて、少しでも応援してあげてください。ささやかな感謝の贈り物をあげてください。

 どうすればいいかって?
 それはあなた自身を信じてあげることです。
 あなた自身を楽しませてあげることです。
 あなた自身をほめてあげることです。

 そして、あなた自身をじっと見てあげることです。坂道のいちもんじせせりを、小さな子どもがいつまでもいつまでも、飽きもせず眺めているように、見てあげることです。

 ささやかな習慣です。
 でも、そのささやかな積み重ねで、人ははじめて、自分だけの「しあわせの基準」をみつけるのではないのでしょうか。

 さあ、あなたが、大好きなだれかを連れてゆきたい、ささやかな場所はどこですか?


<第0134号 2004年10月10日(日)>

      コスモス

コスモス
コスモス

あなたは宇宙と同じ名前

母がつけたのか
父がつけたのか
燃えさかる宇宙の恒星がつけたのか

あなたも知りたいにちがいない

だから
風が来るたびに聞いている
体を揺らして聞いている

でも答えはあなたのなか
聞いてごらん
大地から空に伸びるたおやかな肢体のなかに


   * 挿一輪 *

 コスモスが風に揺れています。
 秋桜という字を当てることがあります。
 その漢字から想像がつきませんが、原産地はメキシコだそうです。太陽と、サボテンと、幅広帽子と、テキーラの国。日本の風景にすっかりなじんで違和感がないのに、意外ですね。

 コスモスは宇宙の意味もあります。
 そういえば、超人シリーズで「○○○○マン・コスモス」もありましたっけ。「コスモス!」と叫んで、変身しました。これも、花とはかけ離れたイメージですね。

 だれが名前をつけたのか。
 コスモスは、自分がコスモスだという名前だとは、しらないかもしれませんね。ただ、秋の風に揺れながら、花を開いているだけかもしれません。

 名前は誰かがつけます。あなたの名前も、誰かにつけてもらったものですね。好き、嫌い、いろいろあるかもしれません。

 でも、考えてみれば、それはあなたについた仮の名前にしかすぎないのかもしれません。生まれて、名前をつけられて、その名前で呼ばれ続けて。

 でも、それ以前に、あなたはあなただったのですから、本当は別の名前があるのかもしれません。
 コスモスも、もしかしたら、本来の名前があるに違いないと思うように。

 あるとしたら、誰に聞いたら教えてくれますか。
 両親ですか。
 空の星ですか。

 いいえ違います。
 あなたのなかにあります。

 きっとあなたは知っているのでしょうね。
 ただ忘れているだけ。

 人間の言葉にならないものかもしれません。
 匂いや、風のようなもの。
 それが本当のあなたの名前なのかもしれません。

 でも、きっと気がつくはずです。
 忘れていても、出会ったならば思い出すはずです。

 ほら、まるでなつかしい友だちのように。
 なつかしいふるさとのように。

 あなたは、本当のあなたの名前について、考えたことがありますか?


<第0133号 2004年10月7日(木)>

      金木犀

金木犀が立っている
匂いとともに
黄金の花を足元いっぱいに散らして

二日降り続いた雨があがり
空には白い色がない
山のふちどりまですみずみまで


立ち止まり金木犀を見上げ
そのまま空を見上げ吸い込まれるひと

顔をしかめ花をよけて
足早にどこかへ向かうひと

金木犀はただ静かに立っている
深い青のもっと奥の
底知れぬ深い宇宙を想いながら


   * 挿一輪 *

 金木犀の花の匂いは独特です。知らずに歩いていても鼻先で突然匂ったりします。
 芳香剤の匂いというと本末転倒ですか。金木犀のほうがまねをされたのですから。

 そのせいか、匂いを嫌う人が多いようです。
 顔をしかめるひと、そばを避けて足早に過ぎるひと。

 でも、嫌われようが、避けられようが、この匂いをかげば、金木犀。
 一度で覚えてしまいます。

 人間でも、個性や特徴は、好き嫌いで語られることが多いようです。好みがはっきりと分かれるほど、それだけ個性的ともいえるでしょう。

 ややもすると、好きなものが善、嫌いなものが悪、のように、善悪の価値観が間違って当てはめられてしまいます。
 個性は、個性として備わっているものですし、好き嫌いは自分の感情に過ぎません。そこから善悪の判断をされてしまうと、個性を個性として素直に受け取れなくなります。

 そう、そのものを、その人を、受け入れることを拒否してしまいます。結果的に、大切な出会いを、自分からなくしてしまうことになりまねません。

 匂いと散りしだく花に誘われて、足が止まる。
 見上げると金木犀の木。
 その木のてっぺんから広がる青一面の空。
 空を突き抜けてゆくと広大な宇宙空間。
 そう、昼間だから見えないけれど、そこにはいつも星空があります。

 誘われるままに視点を動かしてゆけば、形になって見えなくても、動き続けている大きな流れが見えてきます。大きな出会いの連鎖があります。

 いのちには大小はありません。
 奥にひそかに抱くものは同じです。同じものがあって、はじめてその上に様々な形があり、それぞれの個性がうまれてきます。

 個性は、いのちの入り口です。
 大元は同じなのだから、安心して個性を発揮してください。
 そう、金木犀に負けないように、一度でも出会ったらすぐにあなたとわかるように。


<第0132号 2004年10月3日(日)>

      大切なもの

あなたにとって大切なものは
かけがえのないものは
何ですか

あなたが生きているのは
どこですか

あなたという
いのち
うまれてからずっと休むことのない
いのち

そのいのちが立ち止まって見ているのなら
そのいのちが何かに呼び止められているのなら

小さなものといえますか
取るに足らないものと笑えますか
とても大切なものだとは思いませんか


   * 挿一輪 *

 比べるということはいつ頃から始まるのでしょうか。
 大きい、小さい。長い、短い。強い、弱い。

 比べることは、いつの間にか価値観を作り出します。
 大きいほうが目立つ。長いほうが有利。強いほうが人気がある。
 結果として、対照になったものを見下げてしまいます。善悪の価値に転換してしまいます。

 二つのものを比べるのなら、たいがいは違いを見つけるのはたやすいことです。ただ、物事には二面性があります。
 大きいほうがいいと思っている人にとっては、大きいほうにメリットを感じますが、逆に大きいがゆえのデメリットもあります。

 比べるときはそれぞれの価値を認めた上で、自分自身が選択することです。良いも悪いもありません。

 ところがひとつの考え方、例えば大きいのが良い、小さいのが悪いという考え方が主流になると、考えずに流されてしまいます。小さいことも、いいことなんだ、という考えは少数意見になり、そればかりか、多数に属さないと非難すら受けることがあります。

 いちばんいけないのが、自分自身で思い込んでしまうことです。小さいこともいいことなんだ、なんて、こんなことを考える自分は、何ておかしいのだろう、と。
 自分を、多数と比べた結果、少数と認めたとたん、自分が悪いものなんだと、善悪の判断を持ち込んでしまいます。

 比べるという意味を、もう一度良く考えてみてください。
 比べられないものを比べてはいませんか。
 土俵の違うものを、無理やり比べてはいませんか。
 何のために比べますか。
 優劣をつけて、それからどうしますか。
 何の役に立ちますか。

 例えば、あなたと他人は違います。確かです。
 あなたが見るものは同じでも、他人と違う以上、見え方も違います。
 その違いを、確かめもせずに、他人と違うという理由だけで、卑下することはありません。
 比べる必要はありません。

 あなたにとって、いちばん大切なものは何ですか。
 あなた自身です。
 これは自己中心ではありません。
 自分を大切にできてはじめて、同じように他人も大切にできるようになります。

 かけがえのないたったひとつの、あなたという、いのち。
 それを大切にして守るのは、あなただけしかいません。

 あなたは生きています。生きていることは、比べることができません。
 いのちのレベルでは、みんな同じだからです。

 あなたに自信をもってください。
 オリジナル?新たに作り出さなくても、生きているだけで、あなたは十分にオリジナルなのですから。



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