2004年11月のこびん

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<第0148号 2004年11月28日(日)>

      さくら

さくら
秋にも散る

赤くカサカサした葉を
ひとつ残らず

さくら
散りつくして
青空のまんなかに立つ

だれも
さくらとは気がつかない

でも
さくらはさくら

さくらだけは知っている


   * 挿一輪 *

 紅葉の季節。落葉樹が葉を落とします。

 落ちてゆく葉を受けながら遊歩道を歩いていると、赤い葉が肩に止まりました。
 これは何の葉。ふと上を見上げると、見覚えのある樹です。
 さくらの樹でした。

 春、いつも満開の花を咲かせ、花散るときにこの下を歩くと、花びらが頭や肩に止まったことを思い出しました。

 さくらは二度咲きます。春の薄ピンクの花と、秋の紅い葉。
 そして、さくらは二度散ります。春の花の散った後、新緑が樹全体をおおうと、だれも振り向かなくなり、見ただけでは何の樹なのかわからなくなります。
 紅葉も散ってしまって幹と枝だけになると、何の樹だかわからなくなります。冬を向かえ、次の春にそなえるさくらの樹。

 だれも振り返らなくても、さくらはさくらです。それはさくら自身がいちばんよく知っていることです。

 人にも長い間にはいろいろなことがあります。表舞台で光を浴びることもあれば、しばらく忍耐を強いられるときもあります。辛いことや苦しいことで、落ち込むことがあったり、小さなきっかけで、思わぬところから喜びをプレゼントされたりします。

 でも、どんな時であろうと、その人はその人です。
 わたしはわたしであり、あなたはあなたです。

 どんな時でも、あなたは自分の名前を忘れたりしませんね。
 嫌いになろうと、愛しくなろうと、あなたであることに変わりはありませんね。

 注目されようと、ひっそりと生きようと、あなたがあなた自身を忘れない限り、いつもあなたであるはずです。

 さくらは花の季節にはたくさんの目を集めますが、それ以外の季節にも味わいがあり、じっと見続けて愛でる人もいます。あなたもあなた自身以外に、あなたのことをじっと見続けている人が必ずいます。だから、さくらがさくらをやめないように、あなたもあなた自身を信じて、あなたの生き方を続けてください。

 花は咲きます。
 散って新緑になり、そして紅くなります。
 散って裸になって、また、花の準備をします。
 そして、花を咲かせます、さくらの花を。

 ね、決まっているけれど、とてもステキなことだとは思いませんか。何も疑わずに信じきっていると思いませんか。


<第0147号 2004年11月25日(木)>

      いちょう

いちょうは気がついている
体のすみずみから
何かが語りかけているのを

風が変わっているのは知っていた
明るく塩気を含んだ風が
ぱたりと音沙汰がなくなったのを

空がどんどん高くなってゆき
魚の群れのような雲が
毎日のように便りを運び

冬がやってくる
いちょうは大きく深呼吸をして
余分なものを落とす準備を始める


   * 挿一輪 *

 落葉樹。
 その名のとおり秋の終わりに葉を落とします。冷たく厳しい冬をむかえるために、余分なものを落とします。少しでも、樹本体に負担がかからないようにして、冬眠のように硬い枝で春を待ちます。

 人間には落とす葉がありません。
 どちらかといえば常緑樹に似ているのでしょうか。松や檜(ひのき)、楠(くすのき)などのように一年を通して緑の葉をまといます。

 それにしても、まとう葉は大きく重く厚いものです。生まれた時は、冬の落葉樹のようにむだのない姿なのに、年を重ねるにつれてたくさんのものを背負い込みます。

 年相応の、とか、経験豊かな、とか、一見立派な緑の衣に見えますが、過信すると、いざという時の厳しさに負けることがあります。大雪に耐え切れずに折れてしまったり、強風に葉が災いして根こそぎ倒れたり。すべて葉を落としきった幹や枝のほうが、何倍もの強靭さを見せてくれるのとは対照的です。

 物事を抱え込み過ぎないように気をつけないと、身動きがとれなくなり、わずかなアクシデントで、もろく折れてしまうことがあります。

 いざとなったら余分なものはすっぱりと落として身軽になる。いちょうをはじめとする落葉樹の姿は、厳しい状況に生き残るために、自分がどういう姿勢で相対するのかというヒントになります。

 でも、じっと耐えているばかりではありません。厳しい冬をいちばん安全な形で耐えて、あたたかな春になれば、柔らかな大きな葉を広げればいい。

 落葉樹を見ていると、時に感心し、時に勇気付けられ、応援のエールを送りたくなります。

 ほんとうに大切なものと、今は捨ててしまっても、また後から新しく芽生えるもの、その区別をしっかりとつけて、大切な幹は守り、そのために余分なものは、逆境の中ではそぎ落としてゆく、そんな判断も必要な気がします。

 冬の日の落葉樹の裸木。りんとして、ステキに見えませんか。
 春を待って、芽吹く若葉。まぶしく輝いて見えませんか。


<第0146号 2004年11月21日(日)>

      時(とき)

あなたの
とき

あなたのための
とき

なくすな
むだづかいするな

生きている間だけだから


   * 挿一輪 *

 生まれてから死ぬ瞬間まで。それがいのちに与えられた時間の長さです。

 生き方には無限の変化があります。
 確かに人によって、生まれてから過ごしてゆく環境には違いがあります。経済的な環境から、両親をはじめとする家族の環境、病気など身体的な環境、千差万別、それぞれ固有の環境を抱えています。

 でも、「生きている」ことに関しては、同じです。
 100歳まで生きる長生きの人もいれば、夭折する人もいます。物理的に計って大きな差があるかもしれませんが、生きている「とき」は平等です。
 「価値」といってもいいかもしれません。

 たとえ時間的な制限が非常に短くても、ぼーっと流される時間がほとんどなければ、生きている「とき」はとても大きなものになります。
 一方、どんなに長命でも、ただ何となく生きていれば時間はすぐに通り過ぎてしまいます。

 せかせかと、せっかちに生きろというのではありません。ただ、せっかく与えられた「とき」を無意識に捨ててしまうのは、もったいないと思うだけです。

 あなたはむだづかいをしてしまったと悔やむことはありませんか。
 それはあなたにとって本当にむだなものだったのですか。それとも、他の人から言われて、あなたがそう思ったことですか。

 他の人が、あなたのものをつまらないと批評するのはかまいません。他の人がどんなに価値がないと思っていても、あなた自身にとってかけがえのないものならば、それはむだではありません。価値観が違うだけで、逆に相違が多ければ、大きければ、それだけあなた独自の価値観があるということです。自分に自信をもってください。

 困るのは、一時の衝動で手に入れて、後からあなた自身で、無価値だと思ってしまったことです。せっかくためた大事なお金を、一時の衝動でつまらないものに変えてしまうのと同じです。むだになるだけではなく、その行為をしたこと自体が、あなた自身を責めることになってしまいます。

 生きている「とき」も同じです。あなたの生きていること自体、あなたがむだだと思ってしまったら、その痛手は計り知れません。他の人から言われても、あなたに一本筋の通った生き方ができていれば、どんなに遠回りしても、むだだとは思いません。

 むだづかいとは、あなたの毎日に対しての、意識の持ち方次第で、増えもすれば、なくなりもします。

 厳しいようですが、使える「とき」は生きている間だけです。だれもが同じです。ひとつ残らず使い切る気概で生きてみたいものです。

 おいしいものは、最後の一切れまで、味わいつくします。お皿だってなめたくなります(お行儀が悪いですが)。
 あなたという最高の美味の料理、あなた自身で、味わいつくしてみたいと思いませんか。


<第0145号 2004年11月18日(木)>

      もう少し

慢性の病気がある
検査の結果が少しずつ悪くなる
薬が増える

薬局のカウンターで薬を出すたびに
「また増えちゃったね」と
はにかむような笑顔

決して愚痴はこぼさない
いつもニコニコと穏やかな笑顔
「どうしたらいいのかな」

その笑顔で尋ねてくる
じっと目を見ているしかない私
とまどい溶けてしまった言葉たち

「そうだね もう少し生きてみよう」
溶けた言葉をそっと拾って杖にして
90年近く体を支えた腰を伸ばしたあなた

ドアを開けて出てゆく背に
11月の午後の陽が付き添ってゆく

陽だまりのようなあなたに 幸あれ


   * 挿一輪 *

 薬を調剤して、カウンターで説明して渡す・・・それが私の仕事です。

 毎日たくさんの方と話します。初めての方もいれば、2週間、1ヶ月ごと、きちんと来る方、毎日のように来る方。

 風邪や腹痛などの急性疾患は、子どもや若い方、働き盛りの方。高血圧や糖尿病、心臓病などの慢性疾患は、高齢者の方が中心です。

 あっけらかんとしている方、細かく聞いて相談していかれる方、辛そうにしている方、愚痴をずっとこぼしていかれる方。医師の前では話しにくいことも、薬局のカウンターでは様々な話をしていかれます。

 その中に、一人の、もう90近くの女性の方がいます。いつもやさしくおだやかな表情をされて、話すときもニコニコと笑いかけてきます。慢性疾患のほうは、薬にもかかわらず、検査のたびに少しずつ悪くなり、薬は増えてゆきます。

 決して愚痴はこぼしません。でも、話しかけてきます。
 「どうしたらいいのかな・・・」

 食事に関する注意や、生活に対する注意、それをアドバイスするのが本来の仕事です。でも私には何も話す言葉が見つかりませんでした。ただじっと目を見ているだけ。

 11月の午後の日差しがふわっと溶けて、その方は微笑んだまま言いました。
 「もう少し生きてみよう」って。

 私はその時、鏡のようになっていたのかもしれません。

 自問自答ということがあります。
 何かの問題で悩み、どうしても出口が見つからない時、思わず口に出てしまう疑問。

 ほとんど無意識に出てくる問いは、自分の声になります。声になった問いは自分の耳に、はねかえって、ふと答えが、無意識の中から返ってくる。まるで鏡の中の、もう一人の自分に語りかけるように。

 まわりを見回してください。そんな鏡のような役割をしている人が必ずいるはずです。
 そう、目の前にいて、話しかけているだけで、じっと聞いてくれるだけで、自分の思いが整理され、進む方向のヒントが見つかってくる人が。

 思い当たったら、その人を大切にしてください。ふだんは目立ちません。身近にいて、そっと支えてくれているはずです。親かもしれません。子どもかも、兄弟かもしれません。恋人かも、伴侶かもしれません。人間ではなくて、ペットや樹や空や海かもしれません。
 そこにいるだけで、空気のようだけれど、鏡のように映してくれるもの。

 そして、何かの拍子に、自分が逆にその役を演じていることもあります。たとえ偶然であれ、その体験はこころにとめ、明日のために活かしたいものです。

 さあ、あなたは、大切な鏡を見つけましたか。
 そして、あなた自身が、鏡になることができますか。


<第0144号 2004年11月14日(日)>

      対話

話しかけるだけではない
耳をかたむけるだけではない

ひとつのこころだけでは
波紋は生まれない
止まった水は鏡のようだし
何もなければ風は無口だ

いのちが
やわらかくはずむのは
水と風の両方をあわせもっているから

さあ
波紋を作ろう
あなたとわたしで
わたしとあなたで

どんなに輝く光だって
うけとめるだれかがいなければ
悲しい通行人にすぎないのだから


   * 挿一輪 *

 伝える道具が世の中にあふれかえっています。受け取る道具も進化して便利になりました。コミュニケーションは以前より比べ物にならないほどスムーズになっているはずです。

 でもどこかですれ違いが生じます。
 すれ違いの幅は、昔より広がっているような気がします。受け答えが瞬時にできる分、安易に行動したり、判断を誤りやすくしているのかもしれません。

 じっくり考え、自分のこころにもう一度確かめることなく事を起こしてしまいます。また、そのことに対しての恐れとプレッシャーが負担になってしまいます。
 下手をすれば、ほんの小さな受け皿に、滝のような情報が集中してしまいます。台風のときの集中豪雨のようなものです。

 他人の芝生はよく見えるように、みんな何気なくできてるようで、自分だけができずにあせってしまいます。
 上手にすばやくさばける人はそうはいません。適度に流しているのか、うまくやっているように見えるだけです。

 結果的に等身大の自分を見失ってしまい、自分を追い込み、責めてしまい、自信をなくしてしまいます。こころを閉ざし、閉じこもって、過大な道具に囲まれながら、沈黙を強いられてしまいます。

 そっと外に出てください。

 早朝でも、深夜でもかまいません。どうしても、なら、家の中で窓を開いてでもできます。

 風を感じますか。
 風の音を聞けますか。

 風だけでは音は鳴りません。
 あなたに当たって、あなたに聞かれて、初めて風は音になります。
 水面を見てください。
 風が当たると波紋ができます。水だけでも風だけでもできません。

 いのちは水と同じやわらかさを持っています。だからわずかな風、微風でもこころに波紋を立てることができます。
 そんないのちどうしが対話したら、発達した道具など必要なしに、柔らかな波紋が行き来するのかもしれません。

 気持ちを開けば、雲の間から陽光が照るように、波紋に光がはねかえります。
 忘れてしまった弾力性が戻ってきて、こころがふわっと丸くなります。

 これは決してひとりではできません。いのち同士(人間同士とは限りません)の対話、あなたと私の対話が作り出すものです。

 さあ、だれかと、何かと、話したくなってきませんか。話して、聞いて、聞いて、話して。
 波紋は対岸にぶつかるとまた戻ってきます。その繰り返しで、まぶしいくらいの光る波紋が作れます。ばらばらだった波紋の形が、一定の形になります。

 定常波。やわらかな、活き活きとした波紋。
 どうですか。
 あなたは、だれと、世界でたったひとつの波紋をつくりだすことができますか。


<第0143号 2004年11月11日(木)>

      旗

旗が風に揺れている
激しく強く揺れている
音を立てて
何かを振り切ろうとするかのように
揺れている

旗はたましいの印
ここにたましいが宿っているという印
風の力を呼び
ちぎれるように振り続ける

そして だれもが
その音と
その姿と
そのひたむきさに立ち止まり
またひとつ
深いたましいと出会うのだ


   * 挿一輪 *

 ネパール。
 チベットの仏教では、経文を旗に書き、強い風にはためかせます。書かれた願いと祈りは、風に乗り山々を越えて、自然の営みを見守る、偉大な力の中に染みとおってゆきます。

 あなたの身の回りにも旗はあるはずです。コンビニやお店の旗、運動会での応援の旗、売り出しや案内の旗、何でもかまいません。

 ふだんは目も留めない旗に、ある日、強風が吹きつけて、破れんばかりに激しく揺れているのを見たことはありませんか。そこには何かたましいが乗り移ったように、見違えるほどの力が感じられます。

 風が吹いたから、というのは、確かにひとつの理由です。
 でも、忘れてはいけない、大きな理由があります。旗が、風を受けたとき、ちぎれんばかりに揺れる、ということです。

 硬い石や金属なら、風が吹こうと応えることはありません。旗の中に、風に応える準備がいつもできているから、風を待って、こんなにも激しく揺れることができます。

 呼応。
 呼びかけに応える。

 あなたのこころも旗でできています。
 頬をなでるくらいの微風から、立ち上がるのも苦労するくらいの強い風まで、毎日のように様々な風が、あなたの旗に吹いてきます。

 こころの旗は、柔らかに優雅に揺れていたかと思うと、ちぎれんばかりに大揺れしたり、疲れきったように、だらりと下がったままだったり。あなたは風にほんろうされてしまいます。

 だからといって、石や金属になったなら、柔らかな心地よい風も感じられなくなってしまいます。わずかの風でも揺れる旗だからこそ、あなただけの個性的な揺れ方ができます。

 いちばんすごいのは、自分から風を呼ぶことができることです。
 これをやりたい。
 こんなステキなことを、こんな好きなことを、ひたすらやってみたい。

 想いが想いを呼んで、風を起こします。
 風はあなたのひたむきなこころの旗を、音をたてて揺らし、その音と姿が、驚いたように周りの人たちをひきつけます。

 なぜひきつけるのでしょうか。それは、みんながそれぞれの旗を持っているからです。いつも、ひたむきに風を呼び、自分の旗を大きく大きく振り続けたいとおもっているからです。

 さあ、風を呼んでください。
 こころの旗を揺らしてください。
 みんな待っています、あなたの旗に宿った、あなたのひたむきなたましいと出会うことを。


<第0142号 2004年11月7日(日)>

      自分らしさ

今日の自分らしさ
目標を決めて行動してみる
最初は一つ
明日は二つ
あさっては三つ

でもまだ未熟で不器用だから
一つめはだれかを傷つけて
二つめは自分が傷ついて
三つめの前に途方に暮れて立ち止まる

うまくいかない自分に腹を立て
うなだれて
くやしくて涙を流す

これがいちばんの自分らしさ なんて
まったくシャレにもなってない

でも でも でも
でも でも でも

やってみる
続けてみる
ほら だれかが言っていた
どんなことでも やめなければ できる って

失敗しても 傷つけても 傷ついても
やってみる
続けてみる
やり続ければ できる

やめたらおしまい
自分以外にだれが自分らしさを続けられる?
自分以外にだれが自分らしさを生きられる?


   * 挿一輪 *

 うまくいかない時ってあります。意気込みが強ければ強いほど空回り。

 こんなのや〜めた、と、放り出して、寝っころがって、横目でちらっと見て。
 気になって、拾い上げて、もう一度やってみるか、って。
 どうにかして、やってみるか、って。

 ね、もう一度、やろう、一休みした後でいいから、また、はじめよう。

 そうです。
 自分らしさを続けられるのは、自分だけですから。


<第0141号 2004年11月4日(木)>

      11月

まっくろな
かなへびの目
つやつやした小さな窓

新聞を広げていると
ぬくもり
そんなことばが浮かんでくる

陽だまりのふちに
気がつかないほどの薄い影
そっとまとって
風がぬける

みんなどこかで
小さな眠りの準備に入るとき
11月が始まっている


   * 挿一輪 *

 霜月。11月は、晩秋、冬へ向けての準備の月です。今までつちかい蓄えたものを、じっと抱いて守る季節の始まりです。

 あなたは何か続けていることがありますか。

 唐突な質問のようですが、そっとうなずくことがありますか。気にかけていること、習慣にまでなってしまい意識しないこと、ひたすら努力していること。

 ささやかなことでも積み重ねてゆけば、いつの間にか大きくなってゆきます。
 11月は突然やってくるわけではありません。同じように、実りの季節も、冬を越え、春を待つ季節の移り変わりも、順に送られてきたものです。自然の営みは、決して休むことのない連続の中で成り立っています。

 あなたが、何か目標を持って進むことは大切です。でも、意外にやり続けていることが、いつの間にか、ひとつの到達点にまで行き着いていることが、少なくありません。
 何気なく始めたことが、ライフワークになってしまうことなど、その良い例です。

 こんなことなんて、そう思って投げ出さないで、気になったり、楽しんだり、好きなことは、捨てないで続けてみることがいいのかもしれませんね。

 価値観を、外から決めないで、あなたのこころの爽快さで決めることが、良い結果につながるような気がします。

 続けること、あなたにとって、確実な歩み方のひとつなのかもしれません。



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