2005年9月のこびん

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<第0235号 2005年9月29日(木)>

       彼岸花

         だれもいなくなって
         彼岸花は伸びた
         
         みんなが
         秋の空を見上げている
         わずかのあいだ
         
         草の刈り取られた土手に
         稲の収穫の終わったあぜに
         
         高い空にいちばん近いのは
         わたし
         こんなに恋焦がれていたのは
         わたし
         
         赤い触手を大きく広げて
         彼岸花は
         
         澄んだ秋の一日を
         かき抱くように
         まっすぐに叫んだ


   * 挿一輪 *

 彼岸花は賢い花です。
 
 夏草が生い茂る土手には、けっして姿を現しません。
 秋になって、草が刈り取られるか、勢いが衰えてくると、
 信じられない速さで、その茎をのばします。
 
 葉を出す時間も惜しんで、いきなり真紅の花を咲かせます。
 競争者がいなくなるのを待ち、
 チャンスが来たなら、一気に花を咲かせます。
 
 種の保存のために、生き残るために、
 じっと待ち、そのときが来たなら、躊躇(ちゅうちょ)しません。
 
 普通からは、かけ離れた生き方や、
 墓地のそばに咲いたり、あざやかすぎる花の色から、
 避けられることが多いかもしれません。
 
 実際に、根茎には毒があり、
 虫や獣も食べることはありません。
 
 型破りな花、彼岸花。
 しびとばな、と呼ばれて、忌み嫌われても、
 まんじゅしゃげ、と呼ばれて、愛でられても、
 その生き方は、多くのことを、教えてくれているように思います。
 
 型破りの「型」。
 いつのまにか、自分自身で、線を引いてしまってはいませんか。


<第0234号 2005年9月25日(日)>

       聞こえたなら

         風のまんなかで
         風のうたを聞く
         
         雨のまんなかで
         雨のうたを聞く
         
         わたしのまんなかで
         わたしのうたを聞く
         
         聞こえたなら
         もう
         だいじょうぶ


   * 挿一輪 *

 聞こえるようになったとき。
 それは、まっすぐに向き合えたとき。
 
 まわりの音が、聞こえるようになったなら。
 わたしのなかの声も、聞こえるようになったこと。
 
 思いつめているときや、取り込んでいるときは、
 まわりの、ふつうの音が聞こえなくなります。
 わたしの、いつもの声が聞こえなくなります。
 
 落ち着いて、呼吸を整えて、耳をかたむけて。
 ふと、周囲の音が戻ってきたなら、だいじょうぶです。
 
 耳は、ふたもないのに、閉じられます。
 便利なようで、いつのまにか閉じてしまうのが、困り者です。
 
 いつでも、どんな音でも、聞いていたいですね。


<第0233号 2005年9月22日(木)>

       コウモリ

         光がなくても
         高速で飛べる
         
         闇を恐れることなく
         自由に飛べる
         
         たしかに
         精緻なシステムはもっているが
         
         コウモリになりたいなんて
         だれが思っているのだろう


   * 挿一輪 *

 夕暮れ。
 ふと、空を、黒い小さなものがよぎります。
 
 コウモリです。
 
 コウモリは、自分から超音波を出し、
 はね返った波を受けて、障害物を見つけます。
 
 だから、闇のなかでも、自由に飛びまわれます。
 
 闇は、だれでも怖がります。
 見えないから。
 そばに何があるかわからないから。
 
 でも、闇そのものには、危険はありません。
 むしろ、目が慣れてしまえば、落着けることもあります。
 
 闇は、怖い、動けない。
 闇のなかで崩れてゆくのは、自分の恐れが原因です。
 
 闇は、なつかしいもの、包まれるもの。
 そう思えば、ゆったりとした気持ちで、
 どんな闇でも、自分を失わずに歩いてゆけるとは思いませんか。
 
 コウモリの、超音波システムが、うらやましくなくなれば、
 もう、しめたものです。


<第0232号 2005年9月18日(日)>

       椎の実

         まだ細身のすましやさん
         緑色の帽子をかぶり
         つややかに光っている
         
         小さなからだは
         春から夏の
         夏から秋の
         太陽と水の恵みの結晶
         
         ひとつひとつが
         託された未来
         びっしりとつまった明日
         
         考えてごらん
         この実のなかに
         一本の大木が眠っている


   * 挿一輪 *

 椎の実。
 しいのみ。
 どんぐり。
 
 子どものころ、コマを作ったり、やじろべえを作ったり、遊びました。
 
 いまは、まだ、秋の入り口。
 椎の実も、スマートな緑です。
 
 この小さな実の、ひとつひとつに、つまっているのは、未来。
 大きな樹、一本分のもとが、入っているのです。
 
 わたしも、生まれたときは、椎の実から、出たばかりの新芽。
 未来を託された、大きな樹のもとだったはずです。
 
 いのちのなかには、無限の素質が眠っています。
 ゆっくりと、確実に、育てていきたいものですね。


<第0231号 2005年9月15日(木)>

       龍の目

         雲が
         寄せあつまって
         黒い龍になった
         
         でも
         よく見てごらん
         
         龍の目から
         虹がうまれている


   * 挿一輪 *

 青空に、雲が出てきたなと、思っていたら、
 いつのまにか、集まり、黒い雲まで出てきました。
 
 一天にわかにかき曇り。
 ひと雨、来そうな気配です。
 
 雨の神は龍神といわれます。
 そういえば、この黒雲は龍に似ています。
 
 龍が暴れだす前に、帰らなくては。
 でも、ふと、見てみると。
 
 虹が立っているではありませんか。
 少し、離れたところで、降り始めたのでしょう。
 
 その、虹は、龍の目からのびていました。
 「龍の目の涙」でしょうか。
 廣介童話を思い出しました。
 
 そういえば、
 雲の龍も、わたしも、水からできています。

 わたしから、虹が立つ日はあるのでしょうか?


<第0230号 2005年9月11日(日)>

       わたし

         わたし は
         
         どれくらい確かに
         わたし なのか
         
         どれくらい素直に
         わたし なのか
         
         生きているあいだ
         かたときも離れずに
         
         わたし で
         
         いることの
         むずかしさ


   * 挿一輪 *

 わたしが、わたしでいるなんて、決まっている。
 
 でも、不思議と、
 わたし自身でいる時間って、少ないのかもしれません。
 
 気がつくと、ふわふわとどこかに遊びに行ってしまい、
 気がつくと、だれかの形で居心地のいい場所を探しています。
 
 ついには、帰る場所を忘れて、だれかになりきって満足している。
 ある日、突然、追い出されても、さて、わたしはどこにいた?
 
 生きている時間は、ただでさえ限られているのに、
 いったい、だれのために生きているの?


<第0229号 2005年9月8日(木)>

       こおろぎ

         今日いっぱいの いのちなら
         今日のために鳴いてゆく
         
         今日で終わらぬ いのちなら
         明日のために鳴いてゆく
         
         今日の いのちと
         あきらめず
         
         明日も いのちと
         おこたらず
         
         いま ここ わたし 
         
         できることを
         ひたすらに


   * 挿一輪 *

 たとえ、台風の進路の予想はできたとしても、
 わたし自身の、ほんのわずか先のこともわかりません。
 
 たとえば、明日どうなることか。
 このわたしは、生きているのか、消えているのか。
 
 こおろぎの鳴く声を聞いていると、
 懸命に、力の限り、鳴いているように思えます。
 
 今日一日のために、ひたすら鳴き続ける。
 明日が来ても、その明日のために鳴き続ける。
 
 明日を迎えられても、迎えられなくても。
 せいっぱいの今日と、明日につながる今日と。
 
 区別することなく、最善を尽くすことを、
 ただただ、教えてくれているような気がしませんか。


<第0228号 2005年9月4日(日)>

       器(うつわ)

         きょう一日の
         わたし自身を材料に
         小さな器を造ってみる
         
         土を練って
         ろくろを回し
         ささやかな器を造るように
         
         見た目は普通の器でも
         釜に入れて焼いたなら
         どんな形になるだろう
         
         こころの奥底の
         うわぐすりが自然にかかって
         どんな色が出るだろう
         
         きょう一日の
         わたしの器は
         どんなに切ない色をしている
         
         澄んだ秋の一日が
         にじみ出る小さな器に
         いつかわたしを造ってみたい


   * 挿一輪 *

 手作りの器は、いくつもの手間をかけてできあがります。
 土の選択から、形の自由さ、焼く温度、うわぐすりのかかり方。
 決して二つとない、オリジナルの器ができます。
 
 もしも、きょう一日のわたしを材料にして、器を造ったら、
 どんな器ができるでしょうか。
 
 思わず惚れ惚れとするような名品でしょうか。
 すぐに壊してしまいたくなるような失敗作でしょうか。
 
 一日の始まりは、みんな同じスタートから始まります。
 できた器に込められた思いは、わたし自身の正直な一日の結果です。
 
 いま、あなたが、いちばん美しいと思うものは何ですか?
 その思いにふさわしい器ができるような、一日がすごせたら。
 
 それだけ、ステキな生き方ができた証拠です。


<第0227号 2005年9月1日(木)>

       空いっぱいに

         空いっぱいに
         秋が満ちる日を
         あこがれのように待っている
         
         空いっぱいに
         夢が満ちる日を
         子どもの瞳のように待っている
         
         立ち止まって
         ふりかえって
         ため息ついて
         すわりこんで
         
         ここにいたらきっと会えない
         じっとしていたらきっと会えない
         
         空いっぱいに
         「いま」が満ちる日を
         わたしの足でさがしにゆこう


   * 挿一輪 *

 ちょっとまわりを見ただけでは、見えないかもしれません。
 遠くを見ても、見えないかもしれません。
 
 どんなに注意深く見ていても、視野の範囲に入らないのなら、
 どんなに目が良くても、みつかりません。
 
 手元にさっきまであったのに、消されたようになくなってしまったもの。
 そっと、一歩あゆみを進ませて、位置を変えてみてください。
 ほら、みつかりましたか?
 
 一歩動くだけで、視点が変わります。
 ね、前に一歩進んでみてください。
 
 景色が、変わって、新しいものが見えてきましたか?



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