<第0402号 2008年4月27日(日)> ましかく ましかくは かたい ましかくは 溶けない ましかくは つっぱり ましかくは そっけない ましかくは こわしたくなる ましかくは 色のない命令 ましかくは 不器用な匂い ましかくは やりどころのない涙 ましかくは 戻れないリフレイン ましかくは 血のにじむハグ ましかくは かくれシャイ ましかくは くぐりぬけて ましかくは 少しだけ小さくなって ましかくは ふるさとの立ち話 * 挿一輪 * 正方形。 そういうと数学の授業を思い出しますが、 ましかく、 というと少し親しみが湧いてきます。 でも、 どちらかというと硬く、 几帳面な性格をイメージさせます。 反発したくなる反面、 ふとなつかしくなったり、 よりどころがなくなったときに、 妙に安心することができたり。 身勝手なこちらの都合にも、 無表情でぽつんと形を崩さない、 ましかくに、 不思議な親しみをもってしまいます。 ものごとに反発したり、 ふと受け入れてみたり、 人間のこころはいつも揺れ動きます。 ある多感な時期、 一定の枠を意識することで、 自分の明日への一歩を踏み出す、 エネルギーにすることもできます。 ましかくは、 厳格な父親のような、 匂いがするのかもしれません。 反発して離れて、 足台にして飛び出して、 ふとどこかで久しぶりに似たものを見つけ、 遠い目になってなつかしくなります。 でもその時はもう、 ましかくをくぐり抜けて、 反対側からましかくを見る、 そんな自分になっていることに、 あらためて気がつかされます。 といっても、 どちらから見ても、 ましかくはましかくですから、 そっけないことに変わりがないのですが。 <第0401号 2008年4月20日(日)> 残す どうしても とっておきたいものがある どうしても 立ち去りがたいものがある ふるさとに よく似た風景 学生の頃 通いなれた路地に似た空気 あなたの笑顔が 一緒に思い出される八重桜 時間は残すことはできない 想いもゆっくりと変化してゆく だからなおさら この瞬間を残しておきたい 生まれてから帰るまで たくさんのシーンのなかで ほんとうにわずかな 生きてきて良かったという証を いちばん自分らしい形で残す ゆるしてほしい わがまま * 挿一輪 * なぜ記念の写真を撮るのでしょうか。 なぜ絵に描いて残そうとするのでしょうか。 ことばに置き換えることも、 五線の上の音符に展開することも、 寝食を忘れてまで没頭するのでしょうか。 歩いているとき、 どこかに出かけたとき、 ふと立ち止まることがあります。 特別に変わったものがあるわけでもないのに、 まるでだれかに呼び止められたように、 そこで足が動かなくなってしまいます。 どこかで見た覚えのある風景だったのでしょうか、 出会っただれかに、 包まれた空気であったのでしょうか。 毎日起こったことは、 すべて記憶には残りません。 いえむしろ、 忘れてしまうほうが多く、 いつも取り出せる記憶は限られています。 だからこそ、 いろいろな方法で、 きらきらと光るもの、 鋭く傷をつけたもの、 その時々の想いを残そうとするのです。 残したものは、 帰るときには持ってゆくことはできませんが、 たしかに生きてきたひとつの証になります。 未練なのかわがままなのか、 この世の中で生き抜いてきたことを、 ささやかな形で残したくなります。 それがたとえ、 だれかひとりのためだとしても、 いえ、もしかしたら、 自分だけのためだとしても。 <第0400号 2008年4月13日(日)> 慈雨 歩いていると 不思議に明るい 空からは 冷たいしずくが つぎつぎと おりてくるのに 立ち止まって 足もとを見ると いつもは無表情な 舗装された道が 光っている 電柱もブロック塀も 落ちているゴミまでも 光っている たったひとしずくの 慈雨の問いかけで 水を必要としない 無機物まで 光を反映する 歩いていると こころが明るい やわらかな光が あまねく満ちあふれて 影はしばし眠っている * 挿一輪 * 雨の日は不思議に明るい世界です。 太陽の日ざしがないので、 まぶしいほどの光はありませんが、 すみずみまで濡れることで、 やわらかな光が行き渡ります。 強い光は強い影を生みます。 それはそれで、 魅力的な風景を演出してくれますが、 どうしても輝くものに目が行きがちです。 雨の日のやわらかな光は、 影が消えたようにおだやかです。 めりはりがないといえば印象が残りませんが、 ふだん光ることがないものまでも、 光の仲間入りができます。 そういえば、 カサをさしていると、 こころのなかから外の景色まで、 ふと仕切りがなくなったような、 やわらかな気持ちになりませんか。 疲れているときの強い光は、 からだにとっても負担になります。 いつのまにか疲れているこころも、 慈雨のやさしい光に包まれて ほっとひと息つけるのかもしれませんね。 <第0399号 2008年4月6日(日)> ふりむく とおりすぎた時間は なくなってしまうのだろうか 歩く背中のうしろから すっぱりと落とされてしまうのだろうか ふと呼び止められた 風のような声のないだれかに きみはどこを歩いてきた きみの時間を覚えているかい ふりむいた場所は たったいま見てきたはずなのに はじめて出会う 見ず知らずの異邦人の視線 ここに立っている自分の姿は ふと湧いたようなホログラフ 光って消えて 現れてまた消えて ふりむくときは別の自分になって もうひとつの背中が歩きはじめる * 挿一輪 * ふと何気なくふりむいてみると、 たった今通ってきたばかりなのに、 見慣れぬ景色だったことがありませんか。 考えごとをしていて見落としていたり、 光の具合で見え方が違っていたり、 理由がみつかると納得するかもしれません。 でもどうしても説明のつかないことで、 妙に不安を感じることがあります。 こころの小さな変化は、 時間の流れのようにとどまることがありません。 「刹那(せつな)」という短い時間の、 生き死にをくりかえしていのちは生きている。 仏教ではそう説いているようですが、 たしかに一瞬あとの自分は、 もう今の自分とは違っているのでしょう。 ふりむくことの大切さ。 それは常に変わってゆく、 自分のこころと向きあい、 その時々を大切に生きることを、 かみしめてゆく、 ひとつの方法かもしれませんね。 |
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