2008年6月のこびん

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<第0411号 2008年6月29日(日)>

       かたつむり

         銀色の時間を
         ゆっくりと
         引いている
         
         すこし古びた
         ぜんまいひとつ
         背負って
         家守
         
         まっすぐという
         玉虫色のことばが
         すき
         
         自由という
         身勝手との混同も
         すき
         
         この大きな
         緑色の葉の世界
         端までいったら
         どうするかって
         
         縁を巡っても
         裏に回っても
         風が吹くまで
         待っていても
         
         ぼくの時間は
         ぼくのぜんまいが
         ぼくのちからで
         つくりだす
         
         だから
         雨が降っていても
         こんなにキラキラと
         輝く
         基準


   * 挿一輪 *

 かたつむりの季節です。
 
 といっても、実は一年中いるのですが、
 雨の多い梅雨にはよく見かけられます。
 大きな殻を背負って、
 ゆっくりとアジサイの葉の上を歩いています。
 
 かたつむりの通ったあとには銀色の筋が続きます。
 まるで自分の過ごしてきた時間の証のように、
 しっかりとキラキラと輝いています。
 
 よく見るとくねくねと蛇行しています。
 別にまっすぐに行く必要もありませんし、
 思うままというような、妙な達観もありません。
 
 かたつむりがどう思っているかわかりませんが、
 他のものをお手本として、
 行動しているのではないはずです。
 
 時間はあるものでしょうか。
 それとも作り出すものでしょうか。
 
 かたつむりの殻のなかに、
 もしも大きなぜんまいがあったなら、
 作るのも巻くのもかたつむり自身なのでしょう。
 
 進む道も紡ぎだす時間も、
 かたつむりの基準で決めればいいわけです。
 
 後ろに残る道は自分の軌跡だけです。
 たとえすぐに雨が消してしまったところで、
 生きている限り、
 力強いぜんまいは、
 大きな推進力になってくれるはずですから。


<第0410号 2008年6月22日(日)>

       あじさい

         変わってゆく色
         気づかないくらい
         ゆっくりと
         
         咲きはじめは
         会うたびに
         ちがったのに
         
         目に見える変化と
         目に見えぬ変化と
         
         みつめるものも
         みつめられるものも
         けっして
         とどまることはない
         
         それぞれの時間の
         染みとおるような
         水脈のような
         ながれ
         
         てのひらにすくって
         かみしめるように
         愛でるのは
         いま


   * 挿一輪 *

 あじさいの色は少しずつ変わってゆきます。
 
 どの色も好きなのですが、
 じっと立ち止まっているふりをして、
 今日と明日ではおなじ色ではありません。
 
 見た目にはわかりませんけれど、
 微妙に変化をしています。
 
 それはあじさいばかりではなく、
 見ている自分もまたしかりです。
 
 昨日と今日の自分では、
 どこかがちがっているはずです。
 別に間違い探しではありませんが、
 生きている以上、変化からは逃れられません。
 
 変わってゆくのは楽しみですか。
 それともいつまでも、
 いまのままでいたいですか。
 
 けれどもどんなに望んでも、
 このままで止まることはできません。
 
 変化とは、
 生きているいのちの証でもあるのです。
 だからこそこの一瞬一瞬が大切なのでしょう。
 
 いのちのある限り、
 気づかないくらいの小さな変化を、
 かみしめるようにして、
 毎日をすごしてゆきたいものですね。


<第0409号 2008年6月15日(日)>

       たからもの

         たったひとつの
         たからもの
         
         この世界で
         この宇宙で
         
         たったひとつの
         たからもの
         
         いつもは気がついていない
         
         朝のトーストをかじるとき
         交差点で信号待ちするとき
         笑顔をまぶしく感じるとき
         涙をだれにも知られずぬぐうとき
         
         たったひとつの
         たからものは
         たとえ鏡に映さなくても
         こころの奥底で
         からだの奥底で
         
         守っている
         守られている
         
         だからお願い
         大切にして
         わたしという
         たったひとつの
         たからもの
         
         だからお願い
         うばわないで
         あなたという
         たったひとつの
         たからもの
         
         こんなかなしいこと
         こんなつらいこと
         たからものには似合わないよ
         たからものは輝いていてよ
         
         たったひとつの
         たからもの
         どおしの
         こころからの
         お願い


   * 挿一輪 *

 だれもが多かれ少なかれ、
 たからものをもっていると思います。
 
 とても高価なものだったり、
 値段をつけることのできない思い出だったり、
 もしかしたら、
 他の人にはなんの価値もないものだったり。
 
 目に見えるたからものは、
 大切にしまっておきます。
 目に見えない思い出でも、
 こころの引き出しにしまっておきます。
 
 でもいちばんのたからものは、
 しまっている自分自身です。
 
 なにひとつ持っていなくても、
 自分といういのちがあれば、
 あらゆるたからものを生み出すことができます。
 
 生きるということ自体が、
 そのままたからものなのです。
 
 だから大切にしてください。
 なぜなら、
 この世にたったひとつのものですから。
 失ったなら、
 二度と手に入れることができませんから。


<第0408号 2008年6月8日(日)>

       音を聞く

         風の音を
         聞く
         
         木の葉を
         ふるわす音を
         聞く
         
         あなたの声を
         聞く
         
         わたしのこころを
         ふるわす音を
         聞く
         
         音は
         ひとつだけでは
         聞こえない
         
         吹くものと
         吹かれるもの
         
         話すものと
         受け止めるもの
         
         だから
         音は
         孤独とは無縁だ
         
         しっかりと
         母が子を
         抱きしめるように
         
         ひとつ残らず
         抱きとめるように
         
         目をみひらいて
         音を
         聞く


   * 挿一輪 *

 風はそれだけでは音にはなりません。
 
 木の葉をゆすったり、
 電線をこすったりして、
 聞こえる音を聞かせてくれます。
 
 話すことばも同じです。
 話し手がいて受け取る相手がいて、
 はじめて音としての受け渡しができます。
 
 音はそういう意味で、
 孤独ではないのかもしれません。
 
 せっかくのさまざまな音を、
 ていねいに拾ってゆきたくなります。
 
 なかには聞きたくない騒音や、
 不快な音もあるかもしれません。
 
 けれども、
 ふと耳をかたむけることで、
 遠い国のできごとを教えてくれる風の音や、
 こころが通じる会話の音は、
 もっともっと長い時間、
 耳をかたむけていたいですね。
 
 子どもをしっかりとだきしめる母の愛のように、
 寄り添ってくる音たちを、
 大切に育んでみてはいかがでしょうか。


<第0407号 2008年6月1日(日)>

       もどる理由

         一歩
         もどってみよう
         
         いまは
         もどりたくないのなら
         せめて
         立ち止まって
         ふりかえってみよう
         
         時間は
         もどすことも
         とめることも
         できないのはわかっている
         
         だからといって
         歩む足は
         時間では
         できていない
         
         歩む足は
         とまる足でもあり
         来た道を
         たしかめる足でもある
         
         歩む足は
         だれのものでもない
         あなた自身の
         足だから
         
         あなたの気持ちで
         一歩
         もどってみよう
         
         もういちど
         前をむいたときに
         
         あなた自身の足で
         きっちりとふみだせる
         たったひとつの理由のために


   * 挿一輪 *

 もどることも、立ち止まることも勇気がいります。
 
 毎日を時間という名の車のなかに、
 乗せられ運ばれているからかもしれません。
 
 歩みを止めることで、
 なにか遅れてしまうような、
 あせりが生まれてしまうのでしょうか。
 
 ふと気がかりなことがあっても、
 そのまま通り過ぎてしまって、
 心残りになるのではないでしょうか。
 
 自分の生活の基準を時間に置くことで、
 たしかに効率よく進んでゆけますが、
 無理をして合わせているひずみは、
 かならずどこかに生じてきます。
 
 なにかぎこちないな。
 どこかついていけないな。
 
 まるで忘れ物をしているように。
 気がかりなことが思いついたなら、
 時間の道から、
 そっと脇によけてみませんか。
 
 小さな忘れ物は、
 少し戻って捜しに行けばみつかります。
 
 戻るのが不安ならば、
 立ち止まり振り返るだけでも、
 どこかでほっとするはずです。
 
 時間に流されるのではなく、
 自分の足を意識して、
 自分の歩みを取り戻すきっかけになります。
 
 どんな理由でもかまいません。
 
 時には立ち止まって、
 そして、
 少しだけ戻ってみませんか、
 あなたの新しい一歩のためにも。



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