2008年10月のこびん

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<第0428号 2008年10月26日(日)>

       ドップラー

         近づいてくる音
         ふと気がついたのは
         いつ
         
         聞きなれた音
         遠い昔に聞いたことがある音
         思い出したくても
         どこかひっかかる
         
         ゆっくりと正面にまわりこみ
         とおりすぎる
         そのとき
         
         トーンを落とした
         やわらかな声が
         耳元でささやく
         
         ほら
         あのときの私だよ
         
         時間の遮断機が
         ゆっくりと上がり
         背中のくぼみを空気が押す
         
         すこしだけ足取りが軽くなって
         ありがとう
         
         少しおどけて去ってゆく
         君の名前は
         ドップラー


   * 挿一輪 *

 ドップラー効果を知っていますか。
 
 遠くから来る救急車の音が、
 とおりすぎたと思ったら、
 音が変わって聞こえたという経験がありませんか。
 
 踏み切りの遮断機の前で待っているとき、
 電車が通過する前と後での音の違いでも、
 よくわかります。
 
 音が前に進むときに音の波が押されてせまくなり、
 音が高く聞こえることと、
 音がとおりすぎたときに後ろの音の波が広くなり、
 音が低く聞こえることが、
 その原因なのだそうです。
 
 同じ音なのに不思議ですね。
 
 学校の理科の授業を思い出しますが、
 音の高さの変わる瞬間の、
 なんともいえない脱力感のようなものが、
 なつかしいような不安なような感覚を与えます。
 
 
 そのおかげで、
 ふだん忘れていた昔のできごとが、
 ドラマや映画のワンシーンのように、
 突然よみがえってくることもあります。
 
 現代の日常のなかでは、
 気がつかないうちにストレスを溜め込んでいます。
 気がついたときに、
 小さな息抜きが必要なのかもしれません。
 
 ドップラー効果のやわらかな音は、
 ユーモアのなかに、
 息抜きを教えてくれているのかもしれませんね。


<第0427号 2008年10月19日(日)>

       水と光

         雲ひとつない
         青空の下でも
         泣く人がいる
         
         いまにも落ちそうな
         雨雲の下でも
         微笑む人がいる
         
         うまれたときから
         あふれ出た涙は
         どのくらいだろうか
         
         うまれたときから
         陽のさすような笑顔は
         どのくらいだろうか
         
         目の前にたたずむ
         流れる川の量にも
         いまこのひとときの
         大地を照らす光の量にも
         
         遠く遠く
         はるか遠く
         及ばないだろうけれど
         
         それでも
         枯れることのない泉のように
         泣く人がいる
         
         それでも
         水面に遊ぶ光の粒のように
         笑う人がいる
         
         目にいっぱい涙をためながら
         ほほえみつづける童子のように
         あなたは
         水と光でできている


   * 挿一輪 *

 水と光があれば、
 いのちは生きてゆけるのでしょうか。
 
 でも、
 水と光がなければ、
 生きてゆくことはできないはずです。
 
 不思議ですね、
 どんなに高度な文明ができても、
 水と光の確保は必須条件になります。
 
 人間のからだには、
 水が常に循環しています。
 一瞬でも停滞することがありません。
 
 水は時に過剰になって外に出てゆきますが、
 たとえば涙という水は、
 とても不思議なものです。
 
 光も同じです。
 太陽のように直接、照らしたり温めたりはできませんが、
 たとえば笑いという形は、
 光と同じ効果を与えてくれます。
 
 晴れの日は太陽の光で、
 雨の日は雨の水で。
 
 でも人間にはどんなときでも、
 光や水を出すことができます。
 
 悲しいときうれしいとき、
 水や光を目にするたびに、
 人間っていいなと思うことがありませんか?


<第0426号 2008年10月12日(日)>

       カマキリ

         カマになっている
         両手
         
         狩るために
         捕まえるために
         強く
         
         誇りをもって
         高くかかげる
         
         光に浮かび上がる
         カマキリ
         
         でも
         ときには
         だれかを抱いてみたい
         やさしく
         
         カマの両手で
         どんなに
         そっと触れたとしても
         かなわない
         
         光に小首をかしげる
         カマキリ


   * 挿一輪 *

 生まれたてのカマキリにも、
 小さいながら二つのカマがあります。
 
 それこそやわらかなカマでしょうが、
 大きくなるにつれて立派になります。
 
 カマキリにとってのカマは、
 生きるための大切な道具です。
 人間のように様々な道具を使いこなすわけではなく、
 たったひとつに特化された手です。
 
 それはいちばん効率的に思えますが、
 いつもカマを持ち歩いて生きている、
 そんなカマキリがすこし可愛そうな気になります。
 
 生き抜くことの大変さは、
 いのちすべてに共通することです。
 
 常に食うか食われるかの世界では、
 しかたのないことかもしれませんが、
 もし自分がカマキリだったなら、
 時にはそのカマを持て余すのでは、と思ってみます。
 
 人間は攻撃だけでなく、守り抱くこともできます。
 カマキリがもしそんな抱くということを知ったなら、
 二つのカマをどう思うのでしょうか。
 
 案外、見えない大きなカマが、
 自分の両手にあって、
 触れるたびにだれかを傷つけているとしたら、
 想像するだけでも悲しいことですね。


<第0425号 2008年10月5日(日)>

       青空

         雲の上は
         いつも青空
         わかっていても
         
         しばらく会わないと
         見上げることも
         忘れてしまう
         
         自分の動きが
         どこかずれて
         リズムがとれない日に
         
         ある朝
         目覚めてカーテンをあけたときの
         とびっきりの
         
         まぶしさ
         みわたすかぎりの
         青空
         
         一瞬で
         こんな刹那のひと呼吸で
         ぴたりと
         
         皮膚の境界まで
         とりはずされて
         青空
         
         いまは
         ほかになにもいらない
         しみとおる事実


   * 挿一輪 *

 ひさしぶりの晴れた空です。
 まぶしい光、そしてさわやかな空気。
 
 煩雑なことはすべて横において、
 とりあえず外に飛び出したくなります。
 
 どこかぎくしゃくしていたリズムの狂いも、
 気がついたらとても快調な動きになって、
 それが一瞬で変化するのですから、
 人間とは不思議なものですね。
 
 悩みや気がかりは、
 外因もありますが、
 多くは自分のなかで作り出しています。
 
 まずはからだの境界を取り払って、
 青空と一体になって、
 自分自身も青空そのものになってみたらどうでしょう。
 
 気持ちの良い秋の一日に、
 大きな空とひとつになりに行きませんか。



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