2008年11月のこびん

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<第0433号 2008年11月30日(日)>

       ならぶ

         バス停に
         いちれつ
         ならぶ
         
         電線に
         いちれつ
         ならぶ
         
         アスファルトの亀裂に
         いちれつ
         ならぶ
         
         工事中の道に
         いちれつ
         ならぶ
         
         乾いた涙に
         いちれつ
         ならぶ
         
         まあるい水たまりに
         いちれつ
         ならぶ
         
         昨日と今日に
         いちれつ
         ならぶ


   * 挿一輪 *

 それぞれが勝手に生きているようで、
 まわりを見回すと、ならんでいるものがけっこうあります。
 
 順番を待って、ならんでいる人間からはじまって、
 電線に止まる鳥たちや小さな雑草たちまで、
 縦に、横に、斜めに、
 時には思わずふきだしてしまいそうなおかしさや、
 ほほえましい光景や、
 自然の作り出す美しさに感心させられたりします。
 
 考えてみると、
 いろいろなできごとは突然出てくるものではありません。
 つながりがあり、関連づけられて、
 まるで、ならんでいるように結果が導き出されてきます。
 
 不思議だなと思っても、
 その前後をよく見てみると、
 かならずそのつながりが見えてきます。
 
 あなたが生きている今日という日、たった今という時間、
 この一瞬も、ぽつんと独立しているわけではありません。
 たくさんの昨日が続いて、今日ができているのです。
 そしてその今日が、
 あなたの明日を創りだすのではないのでしょうか。
 
 ならんでいるものの端っこに、
 あなたがちょこんとならんで見渡してみたら、
 新しい発見があるかもしれませんね。


<第0432号 2008年11月23日(日)>

       メモリー

         ひなたに輝く
         もうひとつの小さな太陽
         咲いていた一本の野菊が
         いつまでも残っている
         わたしのなかに
         
         夢に見たひとこまもそうだった
         子どものころの
         場所も時間も
         その理由も忘れてしまった
         鮮やかな一瞬もそうだった
         見つめあった目の
         ゆっくりと動く光も
         スローモーーションのように
         切りとられた短い映像もそうだった
         
         取り出したいからといって
         その映像が
         その香りや音が
         どの引き出しにあるのか見つからない
         
         ただなにかの偶然で
         スイッチが入って
         突然映し出される3次元のメモリー
         
         生きていることは
         生きてきた断片を
         乱数のようにしまい続けること
         
         またひとつこうして
         新しい一瞬が閉じこめられる


   * 挿一輪 *

 何の前ぶれもなく突然思い出す光景があります。
 たしかにどこかで見たものなのですが、
 いつのことかどこの場所か、
 思い出すことができません。
 
 そこにいるのは自分のはずなのですが、
 その自分は子どもなのか学生のころなのか、
 いえ大人になってのことなのか、
 それすらもおぼろげなことがあります。
 
 目の前の光景はくっきりと鮮やかなときもあり、
 セピアのフィルターをかけたようなときもあります。
 
 好むと好まざるにかかわらず、
 時間も立場も関係なく、
 まるで湧いてくるように出てくる映像。
 時には音や香りまでよみがえってくることがあります。
 
 
 多かれ少なかれ、だれもが、
 このような不思議な体験をすることがあると思いますが、
 人間の頭の中には、
 きっとたくさんの映像がしまわれているのでしょうね。
 
 コレクションではありませんが、
 きっとたくさんの貴重な一瞬が残っているのにちがいありません。
 生きていることは、
 もしかしたら、
 「わたし」という名の、
 世界でたったひとつのライブラリーを作るために、
 神様から授けられた使命なのかもしれませんね。


<第0431号 2008年11月16日(日)>

       楽器

         わたしは
         ひとつの楽器
         息を吸って吐いて
         音を出している
         
         世界にひとつのオリジナル
         でも気難しやで
         音色もどこか不安定
         昨日と今日では
         微妙にちがう
         
         自信をもって
         わたしの音で
         こころをそのまま語ればいい
         風の師匠は教えてくれるが
         思ったとおりの
         音が出ない
         
         子どものころは
         意識もしないで
         きっと七色の風の音を
         出していたのに
         
         一度聴いたら忘れないくらい
         だれのこころにも残るような
         わたしの音を
         かなでたい


   * 挿一輪 *

 吹奏楽を聴きにいってきました。
 様々な楽器の音に耳をかたむけ、その音色に聴き入りました。
 
 複雑な形や音を変えるペダルがついていても、
 管楽器の基本は一本の管です。
 その管に息を吹き込み、息が共鳴して音色を出します。
 
 この管に風が通ることで音が聞こえるということを、
 いったいいつごろから人間はくりかえしているのでしょうか。
 
 それはきっと人間自身が一本の管で、
 声や口笛などそのままひとつの楽器になることから、
 はじまった音楽の歴史のように思います。
 
 やわらかな音にやさしさや安心を感じて、
 いったいどれだけの人たちが安らいだのでしょう。
 美しい音や懐かしい音にこころあらわれ、
 涙をこぼす人たちがどれだけ力を得たのでしょう。
 
 そこには声といういちばん基本の楽器があり、
 その時の気持ちを隠すことなく伝えたからかもしれません。
 決して同じものがない個性そのものの楽器、
 だれもがたったひとつのオリジナルを持っています。
 
 時には自信を失い、その声すら嫌になってしまうかもしれません。
 時には声を見失い、なくてもいいのではと思うかもしれません。
 
 でもあなたが生きている限り、
 世界でたったひとつの楽器はあなただけの音を奏でています。
 そのことに誇りをもって、
 堂々とあなたの音を伝えてください。
 
 きっとどこかであなただけしか出せない音色を、
 目をつぶり耳をかたむけている人がいます。
 その人のためにも、
 あなたの音色を朗々と空に解き放ってください。
 どこまでもどこまでも真っ青な秋の空に。


<第0430号 2008年11月9日(日)>

       郵便受け

         紅い塗料が
         剥がれ落ちて
         懐かしい鉄錆色
         
         閉じこめられた時間
         陽だまりになることもなく
         冷える
         
         今日もまた
         配達のバイクの音が
         とおりすぎ
         
         ひと夏をかけて
         伸びてきたきりんそうも
         黄色い髪を止めた
         
         気まぐれな風が
         落葉の手紙を入れようにも
         眠りについた頑固者
         
         だれかあたたかな息で
         呪文を解いてほしい
         童話の結末のように


   * 挿一輪 *

 夏の勢いにまかせて伸びた草たちも、
 冬を迎える支度にと実をつけはじめました。
 
 紅葉のため色彩が鮮やかなようで、
 よく見ると秋はいつのまにかモノトーンに染まってゆきます。
 
 錆びついていた郵便受けがふと目に止まります。
 夏では足を止めることもない光景が、
 不思議に気になってしまいます。
 
 斜めになった光が作り出す長い影が、
 立体感を強調して冬への入口を示しているのかもしれません。
 
 秋になって人恋しくなり、
 いえぬくもりが恋しくなり、
 郵便受けをのぞいて見たくなる気持ちもなんとなくわかります。
 
 現代のメールは訪問の形跡もなく気がつくと届いていますが、
 郵便配達のバイクや自転車の止まる音、
 郵便受けを開けて入れる音、
 玄関を開けて取りに行き、手に取った封筒のこすれる音、
 何気ない音の重なりがプロセスになって、
 手紙を受け取る楽しさを教えてくれます。
 
 いろいろなことが便利になって、
 手間をかけずに済むことが便利なことと思われますが、
 錆びて使われなくなっている郵便受けを見ると、
 時には手紙を書いて返事を受け取ってみたくなります。
 
 何度も書き直して大事にポストに投函した手紙が、
 時間のなかを運ばれ、きしむ音とともに郵便受けに入れられる。
 
 待つ間のゆったりとしたやさしい時間を、
 たとえば手紙を書くことで、もう一度取り戻してみたいものです。


<第0429号 2008年11月2日(日)>

       黒猫

         黒猫の瞳は
         神秘的な水晶玉
         背後にきっと
         占い師がいる
         
         黒猫が眠ると
         世界は平穏になる
         妖しげな入口が
         やわらかなまぶたのふたで
         おおわれるという
         たったひとつの理由で
         
         不吉な予感
         カラス猫と呼ばれて
         嫌われるのも
         きっとその色だけ
         
         黒猫の目は
         まっすぐに見つめる
         そう思わせるだけの黒い体は
         
         つややかに光るほど
         異界への入口を
         だまし絵のように
         ぽっかりと開くのだ


   * 挿一輪 *

 黒猫、不吉なものと思われがちです。
 
 色が黒いというだけでそう思われるのならば、
 黒い犬が問題なく可愛がられるのが不思議です。
 
 猫はどこか、得体の知れないところがあるのが、
 不思議な理由でしょうか。
 
 黒猫は目が強調されます。
 猫の目はよく見ると魔力のようなもので、
 魔法の水晶玉のように、
 どこか異界への入口にさえ、
 感じてしまうことがあります。
 
 人間でも、
 夏まっくろに海で日焼けした後の目の輝きが、
 いつまでも印象に残るのと似ています。
 
 黒猫にとっては、はなはだ迷惑なことでしょうが、
 普通に見えている姿が、
 それだけで神秘的に見えるのですから、
 先入観というものはほんとうに怖いものです。
 
 「見た目で物を判断してはいけない」
 そう教えられ、はっとすることが多いほど、
 第一印象の目に見えることで、
 好悪善悪を観念づけてしまいがちです。
 
 黒猫と同じ目を、三毛もトラも持っていることを、
 黒猫と同じ色を、犬も持っていることを、
 もう一度思いなおしてみたいものですね。





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