2009年7月のこびん

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<第0467号 2009年7月26日(日)>

       あなたに 30

         道祖神の傍らに
         そっとたんぽぽの花
         いつもは怖いお顔も
         まっすぐ見るとやさしい
         
         無表情にすり抜ける
         車の乱気流
         立ち止まるのは
         陽だまりとシジミチョウ
         
         背中を見守るように
         そそがれるまなざし
         透明な慈雨を感じて
         
         こうして守られている
         だれもが知らないうちに
         いつでもどこででも


   * 挿一輪 *

 家の近く、いつも通る道。
 狭い道にもかかわらず、朝夕は交通量は多いので、
 歩いているとひやりとさせられることがあります。
 
 その道のかたわらに露座の道祖神が祭ってあります。
 どんど焼きの季節には小さなおだんごがお供えしてあったり、
 住んでいる人にとってはお隣さんのような神様なのでしょう。
 
 足もとにはならんでたんぽぽの花が咲いていたり、
 ひと休みするように小さなチョウやハチが止まったり、
 でもそばをすり抜ける車の流れに気を取られて、
 足早に通り過ぎる人のほうが多いのかもしれません。
 
 雨のときも風のときも、暑いときも冷えこむときも、
 いつもじっと見つめている道祖神の目は、
 年月の風化にずいぶん薄くなってきています。
 
 すぐそばを通っても知られずに気づかれずに、
 それでも見ず知らずのだれをも、わけへだてなく
 ただじっと無事を祈って立っている道祖神には頭が下がります。
 
 それにしても、生きていることは、道祖神だけではなくても、
 たくさんの思いに知らず知らずのうちに守られているということ。
 傍らに寄り添うように見守るしんとした祈りを、
 決して忘れないように伝えてゆけたらいいですね。


<第0466号 2009年7月19日(日)>

       あなたに 29

         あたためられる
         だれかに切に望むとき
         あなたは忘れる
         あなたのあたたかさを
         
         あたためる
         あなたができること
         透明の鼓動をまとい
         だれかを包むのなら
         
         だきしめられるときの
         不確定な
         あたたさかさより
         
         だきしめるときの
         不器用な
         あたたかさが潔い


   * 挿一輪 *

 抱きしめられることをのぞむことは悪いことではありません。
 むしろ相手のふところに飛びこんでゆくことで、
 相手の想い頼を確かめることができます。
 
 でも抱きしめられることは相手が主体です。
 形にしろ強さにしろ自分の思い通りにはゆきません。
 
 受け身の姿勢や待っている姿勢は、
 なにものぞまずまかせっきりにするときはいいのですが、
 せっかくの想いが時にはちぐはぐになってきます。
 
 それならば抱きしめられることを考えずに、
 自分から積極的に抱きしめてみることも、
 新しい自分を得るきっかけになるのではないのでしょうか。
 
 自分は不器用だからそんな行動はおこせない、
 そう思う人も多いかもしれません。
 
 そういうときは自分の指で自分の脈に触れてみてください。
 体のあたたかさ、いのちの鼓動、
 それは誰もが同じようにもっています。
 
 どんなときでも、人はだれかをあたため抱きしめることができます。
 この想いをこころの片すみにもっているだけで、
 いのちのほんとうのあたたかさが、沁みるのではないのでしょうか。


<第0465号 2009年7月12日(日)>

       あなたに 28

         じっとしていても
         教えられることはある
         ひとりたたずんでいても
         伝えられることはある
         
         目を見開いていれば
         じっと耳を澄ませていれば
         もしもそれがなくても
         いのちをはずませていれば
         
         どこかへ行かなくては
         なにかを揃えなくては
         はじまらないと
         
         いいわけをすべて消した
         あなたそのままの
         いまのかたちだからこそ


   * 挿一輪 *

 立ち上がるときについ声をかけてしまいます。
 さあ行くよ、と、きっかけを与えるのでしょうか。
 疲れているときなど、後ろから押すような感じです。
 
 日頃の行動は目で見たり体で感じていますから、
 実際に自分が動いているかどうかの判断は、
 だれが見てもわかるように簡単なことです。
 
 でも生きているうちにいくつも訪れる分かれ道、
 進まなくてはいけない岐路で、
 迷いながらたたずむ姿は実際には見ることができません。
 
 こころの決断でいつかは道を選ばなければならないのですが、
 もう一押しがどこかにないかと、勝手に理由をつけて、
 先に先にと延ばしてしまう毎日です。
 
 あの人が悪いからだめだとか、この道具がないからできないとか、
 自分以外のもののせいにするときのいいわけは、
 あきれるほど次から次へと泉のように湧き出てきます。
 
 もう一度立ち戻って自分を見つめるとき、
 実はこころやからだのなかに、
 何ものにも頼らずに生きる強い力が備わっていることに、
 いつかきっと気がつくはずです。
 いまのいのちの形のままで、しっかりと前に進んでくださいね。


<第0464号 2009年7月5日(日)>

       あなたに 27

         太陽の光をうけて
         水滴の光をうけて
         葉の光を風の光を
         音の光を受けて
         
         笑顔の光をうけて
         涙の光をうけて
         ことばの光を想いの光を
         ふれあいの光をうけて
         
         あなたが輝いたなら
         そのまま輝いたなら
         からだに新しい光を生む
         
         あなたの光をうけて
         だれかが光をうけて
         光の約束が広がってゆく


   * 挿一輪 *

 光はいろいろなものに宿ります。
 どんなに片すみの目につかないところでも、
 一筋にさしこむ光が思わぬ発見を教えてくれます。
 
 光は一瞬そこでまどろみますが、
 次の瞬間にはかくれんぼうのように消えてしまいます。
 
 でも、なくなってしまったわけではありません。
 まるでことばを伝える風のように、
 次から次へと場所を移ってゆくのです。
 
 はっきりとした光の形のこともありますが、
 こころで感じる気持ちとしての光を、
 染みとおるように伝えることもあります。
 
 あなたは光を感じることができますね。
 目だけではなく、音でも匂いでもこころでも感じられますね。
 
 そしてその感じた光を伝えることができます。
 ことばでも旋律でも触れることでも伝えることができます。
 
 あなたが受け入れてあなたから出てゆく光は、
 そこではもう元の光ではありません。
 なぜなら、あなたという透明なプリズムを通して、
 だれかに輝きを生む、新しい光の約束になるからです。



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