<第0494号 2010年1月31日(日)> ふし そういえば ここからは やわらかなてがのびていた ふるびたべんちになって ひとのしりをあたためているけど すりへったいちまいのいた ふしだけはこんもりとかたい そういえば ここからは まっすぐなあしたがのびていた * 挿一輪 * 節(ふし)だらけの板は歓迎されません。 建築材料としての活用もままならず、 廃材として公園のベンチに利用されることが多いようです。 でもよく考えてみると、この節は伸びた枝を切ったところです。 一本の幹からたくさんの枝が伸びて樹は生い茂るわけですから、 節は根とともに、樹のいのちの源です。 たしかにまっすぐに伸びて節の少ない樹は、 建築資材としては良いものかもしれませんが、 それは人間にとっての都合であって、 樹にしてみれば、たくさんの枝を伸ばして葉を繁らし、 多くの光を浴びたほうが生きるための活力になるはずです。 節は樹にとってとても大切なものです。 樹の明日を担う重要な印の跡です。 人間にとっても、節目ということばは大切な分岐点を表わします。 節から始まるであろう明日を奪ってしまった後ろめたさに、 ごめんねという気持ちで、ベンチの節をそっと撫でてみました。 <第0493号 2010年1月24日(日)> ぐらでゅえーしょん ゆうやけぞらの しゅいろから ぐんじょういろまでの よろこびから かなしみまでの さけびから つぶやきまでの みひらいためから とざしたくちまでの あせばんだからだから こおりついたこころまでの とつとつとした とつとつとした どうしようもない ぐらでゅえーしょん * 挿一輪 * ものごとを白か黒かで判断することはきっぱりとしています。 日常のそれぞれの場面で迷うことなく決めてゆくことが、 生き抜くうえでは不可欠な行為なのかもしれません。 よく考えてみると瞬間的にひとつを選ぶことは、 同時にもうひとつを切り捨ててゆくことになります。 でも迷うことの多い毎日では、 すっきりと割り切れず積み残しにすることが多くあり、 先延ばしにすることが澱のようにたまってゆきます。 その繰り返しで、ついには万年雪のように厚く固まってゆきます。 いつのまにか自分の情けなさに途方にくれて空を見上げます。 もう夕暮れなのでしょうか、夕陽が沈んだばかりの空は、 朱色から群青色までの鮮やかな色相の変化を見せています。 思いこんでうつむいていた目を上げたとたんのできごと、 すっとからだを通り抜けこころの中までしみこんできました。 そのままの変化を見守ってただ寄り添っていればいいこともあります。 時には、ふちどりのない自分も必要なのかもしれませんね。 <第0492号 2010年1月17日(日)> どうぶつびすけっと どうぶつびすけっとを あさひのあたる かがやくまどに ならべてみたら どうぶつびすけっとの めいめいのかげが あかがねいろのゆかに ならんでかけてゆく まぶしいふちどり こぼさぬように わたしのかげが かりりとたべた * 挿一輪 * なつかしい動物ビスケット。 表にはピンクや黄色の甘い砂糖が固まって、 いろいろな形の動物を当てっこしながら食べたものです。 並べたり群にしたり遊びながら食べるのが好きでした。 立ててみるとその影がまたおもしろくて、 朝陽にあたった影は長く長く伸びていきます。 自分も一緒に並んでみると動物たちに仲間入り。 影は床の草原で追いかけっこをしています。 光と影の作り出す世界は楽しいものです。 影はそこにたしかな存在があるからこそ生まれます。 また、光があるからこそ影が生まれます。 生きていることのたしかな手ごたえ、 ほら光のなかで動いてみると影もすぐについてゆきます。 からだの表と裏で光と影ができる不思議。 ここにこうして自分の影があることの大切さを、 おりにつけかみしめて、生きてゆく糧にしたいですね。 <第0491号 2010年1月10日(日)> うみ みつけた うみ みつけた こどもがさけんで ころがるようにはしる こうえんのいけに あたらしいとしの うちゅうまでぬける あおいあおいそらが みちているだけなのに いつでも どこででも うみにつながる あおいみちを かけぬけることができるか * 挿一輪 * どんなに小さな水たまりまでも海にしてしまう子どもたちの視線、 見た瞬間に破裂するように走るエネルギーはうらやましい限りです。 こんなところに海なんてあるはずがない。 知識というのか、先入観というのか、大人目線というのか、 見ている世界は自分の感じる世界なのですから、 直感でもっとものごとを受け入れられたなら素晴らしいですね。 海を見に行く、というのではなく、 海だ、と感じた瞬間に目の前に海が広がる、 そのイメージの連結で子どもたちは行動しています。 笑いながら後からついていった大人たちが、 池に映った青空に目を細めて立ち止まる光景は、 再会してしまえば思い出す新鮮な出会いが、 そこここにあたりまえのように潜んでいることを証明しています。 なにげない一瞬にふと目についた小さなできごとから、 大きく広い世界が始まることを、 いつまでも忘れないでいたいものですね。 <第0490号 2010年1月3日(日)> はつもうで すこしえんりょがちに ながいれつからいっぽさがって てをあわせたほうが すこしひかえめに にぎりしめたたいおんのおかねを つぶやくようにおいたほうが ずらりとならんだかみさまのなかの ひとりのうちきのかみさまが ささやかなねがいを そっとうけつけてくれそうで ぴかりぴかりとあいずをおくる できたてのたいようみたいに とうめいなまなざしで うけたまわったとうなずきそうで おもわずほころんだ たんぽぽのはなのえがお ねがいごとの風といっしょに あおのゆうやくをながしこんだ まっさらなそらの とどめないほどのてっぺんへ まっすぐのぼれ * 挿一輪 * 初詣。 どんなお願いをしましたか? たくさんの人の列のなかでのお参りは、 さっとお賽銭を投げて、ことりとお願いをつぶやいたけれど、 神様、聞き届けてくれたかな。 もしかしたらお参りの人の数だけ神様がいて、 たしかにうけたまわりましたってうなずいてくれたなら、 ずいぶん違う気分で新しい年がスタートできそうです。 もしかしたら心配して、 そっとそばについてくれていて、 願い事がかなうようにいつもこころくばりをしてくれたなら、 ほんとうにしっかりと生きていけるかな。 神様って目に見えないから、つい甘えてしまうけれど、 ぴかりと光る太陽の下や、いつも笑っているたんぽぽのかたわらで、 少しでも長い時間をすごせたのならば、 きっと願いがかなえられるような、そんな気になりませんか? |
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