2010年3月のこびん

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<第0502号 2010年3月28日(日)>

       けつろ

         あまりのおんどさに
         うかんだなみだ
         
         あなたと
         わたしの
         がらすいちまい
         へだてた
         せかい
         
         みえているのに
         つたえているのに
         こころの
         ぜつえんたい
         
         とほうにくれて
         ふくらんで
         ほほつたう
         なみだ
         
         いくすじも
         いくすじも


   * 挿一輪 *

 雨の一日。
 仕事ならば外へ出なければいけませんが、
 休みの日で特に用事がなければ、家にじっとしていたくなります。
 
 窓ガラスに結露した水滴をじっと眺めていると、
 いろいろなことが思い浮かびますが、
 雨のせいもあって哀しい想いがこみあげてくることもあります。
 
 結露している窓ガラスの内側は自分のこころの世界で、
 雨の流れる外側はだれか他の人の世界なのかもしれません。
 
 流れる水は同じでも、一瞬もとどまることのない外側の世界。
 一方、水滴がどんどんふくらんでくる内側の世界は、
 こころの置き場所がどこだかわからなくなって、
 ついには涙のようにいくすじもの流れを作ってゆきます。
 
 でも、雨には罪はありません。
 なぜなら、雨の日にも楽しいことがあるし、潤うこともあるからです。
 気持ちを切り替えて、子どものころのようにすっと指をのばして、
 いたずら書きをしながら、楽しい空想をしてみてはいかがでしょうか。


<第0501号 2010年3月21日(日)>

       ひがん

         ひかりが
         こちらがわならば
         かげは
         むこうがわ
         
         ひかりが
         うまれれば
         かげも
         うまれる
         
         よりそって
         かたるのもいい
         とけあって
         おもうのもいい
         
         まっしろな
         もくれんのはなが
         あなたにふれて
         かぜをうむ


   * 挿一輪 *

 まっしろなもくれんの花が春の日差しにゆれています。
 寒さや暖かさをくりかえしながらも春の彼岸をむかえます。
 気がつくと一日の明るい時間がずいぶん長くなりました。
 
 お墓参りに行って手を合わせるのは此岸と彼岸との境です。
 此岸はこちらがわの日常生活、彼岸はあちらがわの死後の世界、
 お墓のこちらがわとむこうがわですね。
 
 此岸と彼岸は表裏一体、まるで光があるところに影があるように、
 背中合わせに寄り添っています。
 影と光の境界はくっきりとしているようで、
 よく見ると混沌としている魍魎(もうりょう)の世界です。
 
 彼岸は春と秋の時くらいしか意識しないでしょうが、
 ふと何かの折に故郷を思い出すことがあるように、
 日常の片隅にそっといつでも潜んでいるものなのかもしれません。
 
 彼岸というと得体の知れない世界のように思いますが、
 真っ白なモクレンのような風の吹く世界だと思えれば、
 穏やかに語りあうことができるのかもしれませんね。


<第0500号 2010年3月14日(日)>

       はんが

         ふかくあさく
         ほりこんだきず
         うかびあがる
         
         うめこまれた
         つぶやきさけび
         うかびあがる
         
         かすれたせん
         しっかりとしたせん
         つたえるもの
         
         きのうでもない
         あしたでもない
         わたしという
         めのまえのじじつ


   * 挿一輪 *

 版画の世界に惹かれます。
 特に白と黒のくっきりとした雪景色のような世界が好きです。
 何色も重ねた精緻な版画もすばらしいですが、
 潔い線にかこまれた表現の世界が魅力的です。
 
 版画板に掘り込んだ深さや太さがまるで意思を持っているように、
 くっきりとした輪郭やかすれた筆先のような世界をかなでます。
 見れば見るほど奥が深く版画の中に惹きこまれてゆきます。
 
 一度彫った傷は消えません。
 埋めることも訂正することも潔しとはしません。
 それは毎日生きてゆくうえで大なり小なり刻まれてゆく、
 人生のさまざまな場面に負う傷に似ています。
 
 もしいまの自分をそのまま版画にしてみたら、
 どれほどの太い線かすれた線が出てくることでしょう。
 
 でもそうして得られた版画は顔に刻まれたしわのように、
 生きてきた証と生き抜いてきた意思を表しているように思えます。
 最後に摺られる自分の版画、どんな絵になっているのでしょうか。


<第0499号 2010年3月7日(日)>

       でんしんばしら

         あたまのうえに
         のびてゆくでんせん
         
         ずっとささえているのは
         たいへんだけれども
         
         そのしごといがいは
         しっかりと
         じゆうなじかん
         
         ひなたぼっこもできるし
         からすとはなしもできる
         
         たのしくなったら
         わさわさとゆすって
         
         となりのあいつと
         わらいのつうしん


   * 挿一輪 *

 あまりに日常の風景にとけこんでいるので、気にもならないのが電信柱。
 その気になってしげしげと見てみると、とても頑張りやさんです。
 もちろん動き出すわけではなく、
 張り巡らされている電線をただ支えているだけなのですが、
 雨の日も風の日もそのままの姿勢で、ご苦労様と声をかけたくなります。
 
 でもそれ以外は特にやることもなく、
 広告を貼られたり、カラスのねぐらになったり、勝手に使われながら、
 本人?はいたってのんきに自由を謳歌しているようにみえます。
 
 同じように仕事に追われながらも、自由を感じて生きてゆければ、
 わたしたちも日常の生活は楽しいものになるのかもしれません。
 ひなたぼっこだって、からすと話すことだって、
 電信柱よりよほど多い機会に巡り会えるのですから、
 考えようによっては、人間はすてきな生き物になるかもしれません。
 
 日常のどの部分を中心に考えて、どの部分をしっかりと糧にするか。
 1日24時間はだれにでも平等に与えられているのですから、
 どのように使うかという自由は、思うとわくわくしてきませんか。
 生き方は自分で決められるよって、電信柱からの笑いの通信です。



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