2010年6月のこびん

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<第0515号 2010年6月27日(日)>

       きおく

         のこっている
         きおく
         
         どこに
         いってしまうのだろ
         
         すてられた
         でじたるかーど
         
         ではないのだから
         にんげんは
         
         そらにはなったら
         うみにながしたら
         
         かぜが
         ひかりが
         つたえるのだろうか
         
         どこか
         いつか
         はるかとおくに


   * 挿一輪 *

 記憶はその人の頭の中に残っています。
 その人の生と共に始まり、死と共に終わります。
 覚えているかどうかは別にしても、積み重ねられた記憶は膨大です。
 
 パソコンの記憶媒体に残されてゆく記録にも似ています。
 SDカードやUSB、HDDに残されて必要時にアクセスされます。
 でも媒体が壊れてしまえばそれまでですし、
 時間がたってそれぞれを読み込む機械がなくなってしまえば、
 中身を見ることすら不可能になってしまいます。
 
 ある人の記憶は二度と見ることはできないのでしょうか。
 もしかしたら空に流れる雲に、海に繰り返される波に、
 そっと託されているのではないのでしょうか。
 
 夕焼けに染まった空や、たそがれ時の群青色の空を、
 何度見てもふと立ち止まってしまうように、
 はじめてみる光景なのにいつかどこかで見たような、
 そんな懐かしい心持ちになるのは隠された記憶があるからでしょうか。
 
 この世界のどこかに大きな記憶のしまい場所があるに違いありません。


<第0514号 2010年6月20日(日)>

       あめのみち

         あめは
         どんな
         みちを
         あるくのだろう
         
         そらの
         ちちから
         だいちの
         ちちまで
         
         くもの
         ははから
         うみの
         ははまで
         
         ひたすらに
         いちずに
         まっすぐに
         
         かぜに
         おされても
         ひに
         てらされても
         
         あめは
         ちちの
         ははの
         おしえを
         まもって
         まもりぬいて
         あるくのだろう


   * 挿一輪 *

 雨の多い季節になりました。
 今日も降りそうだなあと空を見上げていると、
 ぽつりぽつりと雨粒が降りてきます。
 
 私たちが目的地に向かって歩いてゆくように、
 雨は母なる雲を離れて、もうひとつの母なる海に向かって、
 まっすぐに寄り道もしないで歩いてきます。
 
 周りの仲間たちと一緒に風にあおられようが、時には陽に当てられようが、
 真っ暗闇ですらも、ただ一途に歩いてきます。
 確かに地球には重力があるので当たり前のことなのでしょうが、
 遥か高い空と大地の距離を考えると不思議な気持ちになってきます。
 
 雨には雨の道が用意されています。
 それは草原や山に続いている獣道のように、
 一見わからないものであっても、獣たちにとっては自明の道なのです。
 
 私たちにも私たちの道が用意されています。
 雨の道や獣道のように自然に誘導される道なのかもしれません。
 その行き着くところは自分の足だけが知っているのかもしれませんね。


<第0513号 2010年6月13日(日)>

       きまぐれ

         ねこは
         きまぐれ
         
         そうおもう
         ひとも
         きまぐれ
         
         みあげれば
         ろくがつのそらも
         きまぐれ
         
         わらっていた
         あのこは
         ふりむいたら
         ないていて
         
         まっさおだった
         そらにだって
         ふん という
         くもがそっぽ
         
         でも
         どんなに
         きまぐれでも
         きじねこが
         とらねこには
         ならない


   * 挿一輪 *

 気まぐれというのは、気まぐれな人ほどよくみつけます。
 不思議なもので、だれかの欠点が気になってしまうのは、
 実は自分も同じ欠点を持っているからではないでしょうか。
 
 考えてみれば、一定の法則のなかで自然が動いているといっても、
 見えているところはほんのわずかですし、
 たとえ目の前にあっても「見ない」という特技は、
 だれもが必ず持っている自己保存の原則だと思います。
 
 なにが良いとか悪いとか、善悪で判断することも必要ですが、
 「見える」「見えない」、「見る」「見ない」という現象を、
 日常の中で気まぐれというオブラートに包むことも、
 ひとつの生きてゆく知恵なのかもしれません。
 
 要は、いいかげんの勧め、なのかもしれませんが、
 猫の持つ気まぐれが妙に心地よく感じるのは自分だけでしょうか。
 
 明日という日を待つまでもなく、次の一瞬になにが起こるか、
 ほんとうはこれっぽっちもわからない日常だからこそ、
 気まぐれの勧めを、猫に教えてもらうのもまたいいかもしれませんね。


<第0512号 2010年6月6日(日)>

       ばら

         ならんで
         よりそうだけで
         かおる
         
         おなじ
         あさひを
         あびていても
         おなじ
         そらを
         みていても
         かおる
         
         ばらは
         あさつゆ
         わたしは
         なみだ


   * 挿一輪 *

 6月になるとバラの花が目にとまります。
 生垣や庭の片隅に植えている家も多く、
 遠くからひと目でわかるように咲き誇る大輪のバラや、
 ひっそりと散りかけて初めて目にとまるバラもあります。
 
 花を見るときはバラに限らず正面から見ることがほとんどです。
 人間同士では顔を近づけすぎると恥ずかしくて赤面するほどですが、
 花を見るときはのぞきこむように顔を近づけても大丈夫ですね。
 
 当の花はどう思っているのかわかりませんが、
 少なくても「きれい」と思ってのぞきこんでいるときは、
 もしかしたら白い花もほんのりと薄紅色のこころもちかもしれません。
 
 それにしても満開の大輪のバラ、いったいなにを見ているのでしょう。
 少し上向きの花は真っ青な空でしょうか。
 少しうつむき加減の花は揺れている自分の影でしょうか。
 
 朝露に濡れた花は、涙に濡れた私たちの顔なのかもしれません。
 香りに包まれながら花の横にそっと並んでみると、
 バラの思いが溶け合うようにわかるかもしれませんね。



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