<第0541号 2010年12月26日(日)> ひょうひょうと ひょうひょうと いきてゆくのが いい ふらふらと ではなく はにかんで ていねいに がちがちと ではなく つつまれて まっすぐに ひょうひょうと いきてゆくのが いちばんいい * 挿一輪 * 理想というのは高いところに見つけたいと思いがちです。 頭上にひらひらと飛ぶちょうちょうは、 少し背伸びしたら触れるかもしれませんが、 はるか上空を渡る鳥の群れには届きません。 幸せの青い鳥は、桃源郷にいるのではなく身近に出会えるといいます。 自分を見守る神様も、遠い空や輝く象徴のなかに存在するのではなく、 そっと手を当てた胸のなかにいることが親しみをもてます。 生きることは、他のだれでもない、自分自身が生きてゆくことです。 この当たり前のことがしっくりと身につくために、 人間は年月を重ねてゆくのかもしれません。 考えてみれば、とても効率の悪い生き物ですが、 その不器用さ故に、 逆に長い年月を与えられているのかもしれませんね。 その不器用さもひっくるめて、 「ひょうひょうと」生きてゆければ、 ゆとりを持って周りの世界と付き合ってゆけるような気がします。 「ひょうひょうと」ということばを自分にあてはめたとき、 あなたはどんな気持ちで日常と向きあえますか? <第0540号 2010年12月19日(日)> 詩 ことばのない 詩がある 透明な風のように 羽二重の陽だまりのように 包まれる詩がある ことばにゆだねるものも ことば以外にゆだねるものも なにかで伝えるものも じっと包まれるだけのものも ただまっすぐに ただみつめて ここにあるのは 詩そのもの * 挿一輪 * 詩はことばだけではありません。 絵でも音楽でも伝えられます。 歩くことでも立ち止まることでも見つめることでも伝えられます。 感じたことをそのまま表現すること。 それが詩ということばに仮に置き換えられているだけです。 ことばで表現することが苦手なら、 自分の一番得意なことで伝えたらどうでしょうか、 話すことでも、踊ることでも、笑うことでも、うつむくことでも。 人間は、人間と、いえ人間以外でも生き物でもモノたちでも、 ふれあい、そばにいて、コミュニケーションをとらなければ、 どこか破綻してしまう危うげな生き物のような気がします。 詩ということばは、仮の姿にすぎません。 真の姿はそれを感じ、使い、受け取る人間そのもののような気がします。 詩という形にこだわらずとも、 それぞれの生きている日常を、自分なりの形に表現できたら、 どんないのちでも、せいいっぱい生きている証として、 輝いて見えるはずです。 <第0539号 2010年12月12日(日)> ここにいる ここに いる ここに いる ここに いる 三回つぶやくあいだにも わたしの ここ は みんなちがってゆく 風の強いときの 流れてゆく雲の動き じっと見ていれば わかるのだろうに * 挿一輪 * 時間は目に見えません。 じっとしていて動かないように見える石でさえ、 時間のなかでは動いています。 風の強い日に空を見上げると、雲が飛ぶように動いています。 目に見えるものはこうして動いていることがわかります。 たとえ目をつぶっていても、音が聞こえれば動きがわかります。 見えることもなく、聞こえることも、感じることもない時間、 まさに、いま、ここ、という時に生きているわたしたち。 同じ瞬間を二度と得ることなく生きていることは、 気がつかないだけで、とても貴重な瞬間なのでしょうね。 ここに いる。 そうつぶやいたときのいのちの時間を、 できるだけ大切にしたいと思います。 <第0538号 2010年12月5日(日)> かくれんぼ もういいかい もういいかい まあだだよ まあだだよ 長い長い 渡り廊下のまんなかで こだまの影が 声を潜めている * 挿一輪 * 毎日がかくれんぼ。 探しているものを見つけようとしているときも、 なにを探そうかという、そのものを探しているときも。 はっきりと見えているものは、 日常のなかで意外と少ないのかもしれません。 もういいかい、と呼んでみても、 探しているものから、まあだだよ、と声がかかればいいですね。 少なくともそこにいるとわかっているからです。 返事もなく、問いかけだけが、こだまのように響くとき、 秋の終わりの長い長い影のなかに、 保護色のように答が隠れているような気がして、 ささやかな希望を求めて、いつまでも耳をじっと澄ましています。 毎日がかくれんぼ。 でも問いかけを諦めるわけにはいきません。 それは生きていることの、確かな証のひとつだからです。 |
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