<第0546号 2011年1月30日(日)> ふかん 高い一本の樹 てっぺんに登る いつも歩く道を 曲がる角を 立ち止まる空き地を 息をのんで俯瞰(ふかん)する 冬の太陽に照らされて 道も木も草も あわあわと光っている そう 気がつかなかったけれど こんなに光のなかを生きている。 見えなかったものは なにもなかったわけではない 聞こえなかったものも 聴かなかったことにすぎない 満ちている 満ち溢れている 飛び出したくて うずうずしている 数え切れないほどの わくわくしたものたち * 挿一輪 * 鳥になって飛んでみたいと思います。 それが無理なら、 せめて高い樹のてっぺんからまわりを見下ろしてみたいと思います。 きっといろいろなものが見えてくることでしょう。 いつも見えなかった塀に囲まれた家の庭も、 陽だまりに寝そべっている犬も、 遠くにかすむ神社の杜や高い鉄塔に、 満ちているやわらかな空気までも。 ふだん何もないと思っている、 いえ何かに満ちているとさえ思わない空間に、 実は何もないわけではなく、 見えないものが詰まっていることがわかります。 ひっそりとひとりでいるつもりでも、 しーんとして静まり返っていても、 そこには寄り添うようにだれかが見つめています。 見えないから、聞こえないから、触れないから、 そこに何もないということはないのです。 じっと立ち止まって、その見えないものにこころを開くとき、 その静かで深い隣人と、向かい合うことが出来るのかもしれませんね。 <第0545号 2011年1月23日(日)> わたしのかたち 水面のさあを そのままの目を おもちゃのような 指輪の石にして あかぎれの がさがさの指にはめ まっすぐに 空に突き出す つま先だって 背伸びして 幼子を 母の手に返すように さあをの空に 届ける そのままのわたしは ほらみてごらん さあをの通う 高い一本の樹 * 挿一輪 * 雲ひとつない冬の青空が水面に映っています。 まるで空から降りてきて迷子になった幼子のよう。 きっと地中にしみこんだ雨たちも同じ色をしているのかもしれません。 そちらを返す役目は大きな樹。 太く長い管で吸い上げて吸い上げて、 空にいちばん近いところで幼子を返します。 空から大地へ、また大地から空へ。 決して消えることなく続いてゆくものたち。 それを受け渡し受け取るいのちたち。 その大きなサイクルのひとつが自分だと知ったなら、 いのちを生ききることの大切さがわかりますよね。 <第0544号 2011年1月16日(日)> 常ならぬ たゆとう 与えることと 与えられることの あいだに たゆとう 求められることと 求めることの あいだに 波紋が 遠ざかるように 忘れたころ 帰り寄せるように 冬の陽のブランコ うなじの後れ毛 あはひこころ 水面のさあを * 挿一輪 * 与えることは、手持ちがなくなることではありません。 与えることは、空いたスペースに新たなものを入れることです。 与えることは、より深いものを与えられることです。 損をすることは決してありません。 だから出来るだけ自分の中のいちばん優れたものを与えてください。 与えた後の深く大きな空間には、 海のような、大空のような、今まで体験したことのないほどの、 より優れた贈り物が入ってきます。 この世の中で留まっているものはひとつとしてありません。 ならば、 与え、与えられて、生きてゆきたいものです。 人はいのちとの関わりなしでは生きてゆけません。 だからこそ、どんな形でも、惜しみなく与えてください。 ことばでも、音楽でも、 もし何もなかったら、 太陽と同じくらいまぶしい笑顔でも。 <第0543号 2011年1月9日(日)> 風船 記憶のなかを 音を包んだ 小さな風船がひとつ 朝霜のような 光のタイルに つぼみのような 匂い袋に お手玉をする 少女のてのひら こぼれる笑みの かすかな音 境界が溶けても 割れない風船ひとつ たゆとう * 挿一輪 * 記憶はあいまいなことが多いものです。 はっきりとした境界線のない柔らかな縁取りを持ち、 重なり、たゆとい、つかみどころがなくなってきます。 たとえば風船の飛んでいる場面を覚えているとします。 その場の光や匂い、そして音にならない音までも、 覚えているようで実は様々な場面が合わさって、 まるで合成写真のように別の場面を作り出しています。 外の世界を自分の中で再構成して記憶の一頁を創っている。 生きていることはそのまま創作作品のようですね。 同じ景色を見ていても、 記憶はそれぞれの中で決して同じにならない刻印をしてゆきます。 たったそれだけのことを意識するだけで、 自分がここにいてこの光景を見ていることの大切さがわかります。 出会いというのは、一人ではできませんが、 どんなものでもいい、相対するものがあれば、あるものなのですね。 <第0542号 2011年1月2日(日)> シラス 海のなかでは しなやかなプリズム すきとおったいのち 浜に上げられ 釜でゆでられ まばゆいばかりにオブジェ 潮の風になでられ 海に見まごうばかりの 青の鏡に身を抱かれ それでも シラスの黒い目は 泳ぎつづける 記憶のなかを * 挿一輪 * ふと思い立って冬の海に行きました。 風は強く波もいつもよりは高かったのですが、 そこは日本海の荒海とは違い、砂浜の陽だまりはおだやかです。 漁港のそばにシラスを干して売っているところがありました。 もう、ゆであがった後の白い体が網いっぱいに広げられ、 何台もの扇風機で風を送られていました。 空は雲ひとつなく快晴。 シラスは真っ白に輝いて、美術館のオブジェのようでした。 でも、生き物の美しさは、生きているときが一番。 シラスだって、海中で透明な体を翻しているのが美しいのです。 いのちが見れば見るほど神秘的なのは、 作ろうと思っても作れないものが、 目の前に確かにあるという、事実そのものかもしれませんね。 |
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