2011年7月のこびん

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<第0572号 2011年7月31日(日)>

       母の風

         鼓動に
         自分と同じ色の風を
         シンクロさせて
         
         空に
         空に
         高い空に
         
         いつか
         最後の雲も
         足下に
         見送って
         
         なんにもない
         青のカンヴァスのなか
         なる
         なっている
         
         ほら
         透明な
         母の
         風


   * 挿一輪 *

 風の強い日が続きます。
 南からの熱い風。
 見えなくても海が見えてきそうな湿った風。
 夏色の風です。
 
 風になりたいと思うことがあります。
 風になって、
 ではその風は何色なのでしょうか。
 
 吹きぬける風が誘ってくれるのなら、
 いちばん自分の色に近い風がいいのでしょうか。
 
 風は空高く上がって、
 雲も超えてふき続けます。
 青空の真ん中で、
 どんな色の風も安心して色を落とし透明になります。
 
 そこには、自分の色を探す必要がありません。
 透明な風の母が待っているのに違いありません。
 
 たくさんの風と一緒に、
 どこまでもどこまでも吹きぬける、
 とっても気持ちの良い夢なのかもしれませんね。


<第0571号 2011年7月24日(日)>

       祭り

         祭りの前に
         見えないものへの
         祈り
         
         祭りの前に
         ことばないものへの
         感謝
         
         胸に
         しっかりと
         しまいこんで
         
         祭りの前に
         触れないものへの
         交感
         
         掌に
         ゆうらりと
         ときめかせ
         
         さあ
         ゆこう
         祭りの
         鼓動に


   * 挿一輪 *

 夏祭りの季節です。
 前回のこびんで縁日のことを書きましたが、
 祭り好きな人にとっては、神輿や山車がたまらないのでしょう。
 
 真新しい半被姿に身を包んで、祭りに向かう人の背中を見ると、
 いよいよ始まるんだなという、心地よい緊張感がみなぎっています。
 
 祭りは、今までの無事の神の加護への感謝と、
 引き続いてこれから先の加護への祈りが、
 形になって表されたものです。
 
 でも、その元になるものは、
 見ることも触ることもできない、森羅万象の混沌の世界です。
 
 実体がないからこそ、様々な形でこちらの気持ちを表そうとします。
 神輿も山車もお囃子もその表れのひとつなのでしょう。
 
 祭りの華やかな面ばかり目立ちますが、
 実はその奥に異界への入り口がぽっかりと空いていることを、
 深く忘れないようにしたいものですね。


<第0570号 2011年7月17日(日)>

       綿菓子

         母に
         わたしという
         ゆめの
         ザラメを
         
         たった
         ひとつだけ
         もらったから
         
         小さくても
         いいから
         
         ふんわり
         やわらかな
         綿菓子を
         つくりたい
         
         できたら
         花の
         祭りの前に


   * 挿一輪 *

 お祭りというと綿菓子を思い出します。
 
 縁日にお小遣いをもらって、
 ヨーヨーだの、薄荷パイプだの、当てくじだの、
 欲しいものはたくさんあって迷いましたが、
 綿菓子は、必ずひとつは買っていたと思います。
 
 ほんのわずかのザラメから、
 どうしてあんなに大きな綿菓子ができるのか、
 いつも不思議に思いながら、
 綿菓子の機械の前に張り付いて見ていました。
 
 いま、思ってみると、
 小さなザラメのかたまりから、
 ふわふわの綿菓子を作るのは、
 固い種のような夢が、花開くのに似ています。
 
 綿菓子のザラメは売っていますが、
 夢のザラメは売っていません。
 
 では、だれが渡してくれたのでしょうか。
 年をとってくると、
 ふと、そんなことが、頭をよぎることが多くなってきます。


<第0569号 2011年7月10日(日)>

       空へ

         空へゆきたい
         半夏生の白い残像を
         浮かぶ雲にして
         
         透明な天井画
         踊る風に交わす挨拶
         そう
         目礼でなくてもいい
         
         じぶんの声で
         じぶんのことばで
         
         染み出すように
         笑顔
         さえぎるものはない
         
         空へ行きたい
         そこで
         会えるかもしれない
         
         ずっとずっと
         変わることのない
         ひとりの
         母に


   * 挿一輪 *

 空を見ていると、めまいがするほど体が浮遊します。
 特に、足元の小さな花をじっと見た後に、
 振り仰ぐ空のまぶしく深いこと。
 
 自分の身長などちっぽけなものなのに、
 しゃがんだぶん低いだけなのに、なおいっそう空が高く見えます。
 
 行ってみたいなと、ふと思います。
 鳥のように翼があるわけではなく、
 高いところは怖いに決まっているはずなのに、
 からだのなかから湧いてくることがあります。
 
 ただ行ってみたいだけではなく、
 そこに行けばだれかに会えるような気がして、
 そこに行けば忘れていたなにかをみつけられるような気がして。
 
 夏になる前の空は、そんな気持ちにさせるものがあるのでしょうか。
 それにしても、太陽は熱くまぶしいですね。


<第0568号 2011年7月3日(日)>

       7月の風

         ビー玉のきらめき
         ひとつ
         右目に入れて
         梅雨の晴れ間
         樹に会いに
         
         樹は歩けないけれど
         いつも
         たくさんのビー玉を
         葉と葉のあいだ
         舌の上でころがすように
         キラキラとキラキラと
         おしゃべりしながら
         
         そういえば
         太鼓の練習の音が
         さっきから
         いいえ
         ふと気がついたそのときから
         
         光のばちさばきは
         樹が教えているんだ
         今朝降りたての
         7月の風たちに
         
         もう夏さ
         炭酸水の小さな泡は
         きらめき生み続ける
         やわらなビー玉
         身をよじり昇るまあるい連凧
         
         樹と一緒に
         空へゆきたい


   * 挿一輪 *

 高台に立っている大きな樹に会いにゆきます。
 
 樹は歩けないけれど、いつでもそこにいるので、
 こちらからひそかに会いにゆきます。
 
 樹の下から見上げる木漏れ日のきらめきは、
 とても不思議なリズムを伝えてくれます。
 
 たったそれだけのことですが、
 こんな樹と一緒に、
 ゆっくりゆっくりと、
 光のリズムで語り合えたなら。
 
 きらめきを失うことなく、
 生きてゆくことの、
 ほんとうの大切さ、
 学べるのではないのでしょうか。




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