2011年9月のこびん

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<第0580号 2011年9月25日(日)>

       ききょう色

         ききょうの庭に
         たたずんで
         
         ききょうの空に
         溶けてゆく
         
         いまはただ
         こうして
         じっとしていたいだけ
         
         通りかけて
         ふりむいた風の
         便箋に
         
         染まった蕊(しべ)を
         綴りながら


   * 挿一輪 *

 自分の大好きなもののなかに、
 飽きるまでどっぷりと浸りたい。
 
 はっきりと分かっていなくても、自分のからだやこころが、
 いつもに増してギクシャクしているかな、そう思ったときに、
 湧いてくるように浮かぶ気持ちです。
 
 もしかしたら禁断の果実かもしれませんが、
 自分を解放することによって、滞った循環をなめらかにする、
 そんな利点があります。
 
 ただ、いつまでそこにたたずむか、です。
 
 一日が夕暮れを迎えるように、
 その長さが決まっていれば気持ちの切り替えもできるでしょうが、
 ひとつ間違えると抜け出せないかもしれません。
 
 さて、では、やめましょうか?
 それとも、自分を知るためにも、
 秘密の庭の枝折り戸を押してみましょうか?


<第0579号 2011年9月18日(日)>

       声

         立ち止まる
         たたずむ
         小さな呼びかけの前で
         
         風が吹いている
         光がたまっている
         音もなく
         
         触れたものは
         わたしの皮膚に
         それとも
         皮膚の内側に
         
         もっと遠くからのようにも
         もっと深くからのようにも
         
         ただ
         ここになにかがある
         そう教えられた事実
         
         これからどうすればいい
         それを決めるのが
         ほんとうの自由
         
         なにもしなくてもいい
         しゃがみこんでもいい
         立ち尽くしてもいい
         ゆっくりと
         立ち去ってもいい


   * 挿一輪 *

 なにかに呼び止められた気がして、立ち止まることがあります。
 前後に脈絡がなく突然のことで、まわりにはだれもいません。
 
 でも、気のせいかと思って立ち去る前に、
 なにかが見つめているようなものを感じます。
 
 ふだん、なにげなく通り過ぎている街の、
 たとえば光線のかげんで見知らぬ姿になっている家や、
 足元のだれかが忘れていった落し物や、
 散りそびれて貼りついた花びらなど。
 
 じっと見つめていると、
 そんなものたちを通して、
 実は自分のなかから呼び止めるものがあることに気がつきます。
 いえ、もっというのなら、
 自分のなかを通り越してもっと大きな世界に通じるドアが、
 そっと開いたその気配というのでしょうか。
 
 もしかしたら、
 そのときの自分は、
 いちばん自由な立場なのかもしれません。
 これからどうするのか、すべてがゆだねられているような。
 
 あなたなら、そんなときはどうしますか?
 
 呼び止められた声に、
 いまの自分をおもいっきりゆだねますか?
 
 それともなにか目的を思い出して、
 なにもなかったような顔で立ち去りますか?


<第0578号 2011年9月11日(日)>

       鉄柵

         雨に洗われた
         さび色の
         ながいながい
         鉄琴
         
         学校帰りの
         虹色のカサが
         カララリカラリ
         
         目をさました
         九月のこもれびが
         サラサラサラリ
         
         風の背中に乗せられた
         羽の汚れたセミが
         パラガラガリリ
         
         それでも
         まだまだ先がある
         涼しい顔の
         お澄まし鉄琴


   * 挿一輪 *

 大きな工場の境界で目にする鉄柵。
 いつもは無愛想な柵が、
 雨あがりの帰りには遊びの道具になります。
 
 工場の人に聞かれたら怒られそうですが、
 やりませんでしたか、傘の先でカンカンカンと叩いていったこと。
 
 わたしもやりましたが、子どもはみんな大好きです。
 まるで屋外の鉄琴のように、
 といって、音階があるわけではなく、単調な音ですが、
 長ければ長いほど叩き続けて。
 
 でも、けっして飽きそうもないこの遊びが、
 たとえば秋の初めの少し影が伸び始めたころにやると、
 不思議に哀しげな音に聞こえることがありました。
 
 木漏れ日も夏の強さがなくなり、
 落ちそうなセミが音を立ててぶつかったり、
 さびも目立つ鉄琴は少し短調気味です。
 
 同じ音でも、
 受け取る側によっては、楽しくも、哀しくもなってきます。
 そんな音の違いに気がついてくるのも、
 季節がゆっくりと動いている証拠なのかもしれませんね。


<第0577号 2011年9月4日(日)>

       風の行方

         白い雲
         背中に乗せて
         風がゆく
         
         エンジェルフィッシュが
         矢印になり
         ジェット噴射のイカになり
         イカの足が
         離れてイルカ
         
         あんまり風が速いので
         背中を見たら
         雲が消えた
         
         それじゃあ
         君によろしくね
         
         後戻りなんかできないから
         ひとこと後ろに声かけた
         
         風はもう
         どこにいったのか
         
         はるかむこうの
         海のなかでは


   * 挿一輪 *

 風が飛んでゆきます。
 
 風は透明なので目には見えませんが、
 いろいろなものを運んでゆくので、
 見ること、聞くこと、嗅ぐことができます。
 
 風の姿を追ってゆくのも楽しいものですが、
 風の背中に乗って飛んでゆくのはもっとすてきです。
 
 飛行機は風の背中に乗ってゆくのでしょうが、
 こころのなかで、ひょいと風に乗せてもらい、
 どこまでも飛んでゆくのは簡単ですね。
 
 いっそ、風になりたいと思ったり、
 風をおこしてみたいと思ったり、
 もう十分、
 あなたは風の一族になっているのかもしれませんね。




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