<第0585号 2011年10月30日(日)> 隠れているもの 隠れているものを 見つけにいった 隠れているものは なにかを 恐れているわけではなく 隠れるつもりもないまま ただ ひっそりとたたずんでいるだけ そばを通り過ぎても まえに立ち止まっても 見えているのに 見ていないだけ だから 会おうとすれば そのままの姿で そこに いる この秋の青空の下で 相対するものだけが まっすぐに 語らえる場所に * 挿一輪 * 目の前にありながら見えてないものがあります。 見ているつもりできがつかないことがあります。 「ね、あの店先の子猫かわいかったね」 「え、猫なんていたっけ」 「気がつかなかったの?一緒に見ていたじゃない」 目の前の景色を写真にとって、後から見てみるとわかります。 写真を撮るためにじっと見ているはずなのに、 あ、こんなものが写っている、と、気がつくことの多いこと。 見えていても、見ていない。 隠れるつもりなどないのに、目の前にあっても見ていない。 それだけこの世の中には多くのものが詰まっています。 ひとつひとつ見て確認していたら、一歩の距離にどれだけかかるやら。 見ていないもの、まわりに無限大にあります。 それをひとつ多く見るだけでも世界が変わってきます。 「自分にはもう何もない」わけではありません。 そこに、目の前にあるものを、じっと見てください。 この世界がいかに新鮮かが、わかりますから。 <第0584号 2011年10月23日(日)> 熟 柿 空の一番近いところ 細い枝先に ひとつ つやつやと 朱色のほほを輝かせ 音もたてずに ひとつ 守っていた葉も落ち もう隠す必要のない 柿の木の きっぱりとしたことば 柿 熟したゆめひとつ 積み重ねられた時間 そのままに * 挿一輪 * 秋晴れの空に、熟した柿が輝いていました。 てっぺん近くの葉は枝を離れ始めて、 つややかな朱色の実りが誇らしげです。 実の中には、発芽するための黒い種が眠っていることでしょう。 あの甘い果肉もそのための栄養になるのでしょうか。 ここまでになるには、 長い年月と樹を支える恵みの雨や太陽が不可欠だったに違いありません。 柿の実をみているとその長い道のりがふと語りかけてくるようです。 目の前にある、たくさんのものたちは、 ふっと湧いて来たものではありません。 たとえだれも気がつかなくても、 毎日の小さな積み重ねでできたものです。 柿の実もそうですし、 それを見上げているあなた自身もまたしかりです。 その積み重ねをじっと見つめることができたなら、 不思議なものが見えてくるかもしれませんね。 <第0583号 2011年10月16日(日)> とぶはな きんもくせいの はな かぜをはらんで とぶ さくやは つきにとかされて そっと そっと おりたのだけど こんなに そらが おおきくて おひさま ひとつある あさは かぜのははにのって どこまでも とびたい ひとつひとつが かがやきながら はな あすをはらんで とぶ * 挿一輪 * 通り過ぎようとしても、 その匂いですぐにわかる金木犀の花。 もう散り始めているものもあります。 根元に静かに落ちてゆき、オレンジ色に染まっているところもあれば、 風に吹かれて、風に乗って、頭上高く飛ぶものもあります。 特に晴れた秋の一日は、ひとつひとつの花が、 輝きながら風をはらんで舞い上がり下りて、 そのオレンジのシャワーの下で、 つい立ち止まってしまいたくなります。 まわりに様々な音があるのにも関わらず、 まるでスポットを浴びたようにここだけが静かです。 ちょっと立ち止まることで、 意外とだれもが気がつかない、小さな幸福がみつかります。 そんな小さなことでも、気持ちがふっと軽くなりますから、 この秋の晴れた日には、ご近所の小さな旅にでてみてくださいね。 <第0582号 2011年10月9日(日)> 輝くために 輝くために 生まれてきたから 朝陽の輝きが ふるさとのように なつかしい 輝くために 生まれてきたから 水面の輝きが 幼友達のように なつかしい 輝くために 生まれてきたから 笑いの数だけ 涙の数だけ 輝きが生まれてきた 輝くために 生まれてきたから 輝いたまま 帰ってゆきたい * 挿一輪 * 輝くことは強い光を放つことです。 いのち、すなわち生きることは、 それだけで強い光を放っています。 なにも悩まず、 その光のままに生きてゆけば大丈夫なのですが、 人間は変に複雑になってしまい、 その生きていることに理由を探さなければなりません。 なんのために生きているのか。 考えるまでもなく、答えは出ています。 いのちそのものを生きるため、 それは、そのまま、輝くことにつながります。 なにもしなくても輝いているのですが、 どうしても、その理由を探さなくてはならないのなら、ひとこと、 「輝くため」 と、こころに説明しておきましょう。 あとは、自分を生きてゆけば大丈夫です。 そのままで、そのままで、十分に輝いているからです。 <第0581号 2011年10月2日(日)> 流れる あの雲をください おんぶばったの顔のような 白く小さな雲を あの風をください ふと目を離したすきに 青い草むらに ばったを隠してしまった風を 干してある 縁側の 真っ白な布団の上で そのまま秋になって 溶けてしまうほど 空は身近です あのいのちをください 生きるために ただ生きるために 流れてゆく自分を * 挿一輪 * 秋になっていちばん感じることは、 「流れる」ことではないのでしょうか。 一日の明るい時間が短くなり、 日暮れが身近に感じられるようになったとき、 その影の伸びとともに身の回りの流れが、 そこはかとなく感じられるようになってきます。 考えてみると、見える見えないにかかわらず、 とどまっているものはないのですが、 気がつかないのか、忙しさにかまけて見られないのか、 ふだんあまり意識しないのが毎日の生活です。 でも、ふと立ち止まってみると、 足元の地面から高い空に至るまですべてが流れ続けていることに、 はっとして気づかされます。 秋は、特にそのことが身に沁みて感じられます。 自分自身も決してとどまることなく流れている、 秋の無常感は、 ふと立ち止まることで感じることができるのでしょうね。 |
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